三灶島(三竈島)の万人坟(万人墳)から300メートルほど離れた鱼弄村の西部に、三灶岛千人坟(千人墳)があります。
ここは、1938年に日本軍が殺害した鱼弄村の村人が埋葬されたところで、1949年に墓と碑が修建されました。
碑は高さ5メートルほどで、正面に「三灶抗敌殉难人民之墓」、両側面に「殺身成仁」、「舍生取義」と刻まれています。
碑の下部の「三·一二碑铭志」には、つぎのような言葉が刻まれています。
佐藤正人
墓中三百八十六人,皆本島安份良民,士農工商,男女老幼,四民同殉国難,屍骨錯乱,雑踏横陳,遭遇之惨,
令人不忍卒観,吾人哀其無辜受戮,為国捐躯,乃集資零拾遺骸改葬于此,永留興感。
溯其殉難缘由,乃日本横暴軍人,于民国二十七年夏暦正月十七日,在島南登陸,施其残酷行為,于三月十二
日示威之所為也。
時在民国二十六年七月七日,日本希圖大東亜主義,在河北省盧溝橋肇起戦端,翌年戦禍蔓延南中,占此島
以為侵攻華南根拠地,当时十三村民衆奉長官令疏散,逃避外郷者甚多,而墓中三百八十六人,以保衛郷邦為
己任,死守不逃,殊不料日寇残民以道誘禁郷民于牛軛樹前新填地,剪手縛足,鸣槍射撃,墓中人同時帰于尽,
呜呼惨矣!日寇残暴何一無人道至于此极耶。
迨民国三十四年八月,抗戦八载,卒以正義戦勝强暴,日寇屈服,勝利光栄,充满寰宇,前日之流亡在外硕果
僅存者,復帰故郷,痛我無辜郷民衛郷罹难,英霊不滅,精誠感格,紀念不忘,知慷慨就義之郷民,惨遭锋镝,
為之哀惜然。先哲云,死生亦大矣,重于泰山,軽于鸿毛,抑何故郷,嗟乎!人孰無死,為贵得其所耳,為国難
死,与疾病而死,均死也湮没無聞,何足道哉,若墓中人,愛国愛郷不屈强暴,宁為玉碎,不作瓦全,从容就義
其馨香奕世,万流景仰,宜也,吾人感其義烈。公題其墓,曰:三灶抗敵殉難人民之墓,非偶然也。
独是乱离初定,满目瘡痍,虽有西伯深仁,難求将伯之助,所幸旅外僑梓胞為懐,愛郷念切,登高一呼,金囊
慨集,鸠工已成,英霊永奠,瞻仰百世,岂不盛哉。
時在民国三十八年六月初五日合郷绅耆
民衆与旅外僑胞主持遷葬永留紀念
廖玉池谨志 香江伍植伯刻
ここは、1938年に日本軍が殺害した鱼弄村の村人が埋葬されたところで、1949年に墓と碑が修建されました。
碑は高さ5メートルほどで、正面に「三灶抗敌殉难人民之墓」、両側面に「殺身成仁」、「舍生取義」と刻まれています。
碑の下部の「三·一二碑铭志」には、つぎのような言葉が刻まれています。
佐藤正人
墓中三百八十六人,皆本島安份良民,士農工商,男女老幼,四民同殉国難,屍骨錯乱,雑踏横陳,遭遇之惨,
令人不忍卒観,吾人哀其無辜受戮,為国捐躯,乃集資零拾遺骸改葬于此,永留興感。
溯其殉難缘由,乃日本横暴軍人,于民国二十七年夏暦正月十七日,在島南登陸,施其残酷行為,于三月十二
日示威之所為也。
時在民国二十六年七月七日,日本希圖大東亜主義,在河北省盧溝橋肇起戦端,翌年戦禍蔓延南中,占此島
以為侵攻華南根拠地,当时十三村民衆奉長官令疏散,逃避外郷者甚多,而墓中三百八十六人,以保衛郷邦為
己任,死守不逃,殊不料日寇残民以道誘禁郷民于牛軛樹前新填地,剪手縛足,鸣槍射撃,墓中人同時帰于尽,
呜呼惨矣!日寇残暴何一無人道至于此极耶。
迨民国三十四年八月,抗戦八载,卒以正義戦勝强暴,日寇屈服,勝利光栄,充满寰宇,前日之流亡在外硕果
僅存者,復帰故郷,痛我無辜郷民衛郷罹难,英霊不滅,精誠感格,紀念不忘,知慷慨就義之郷民,惨遭锋镝,
為之哀惜然。先哲云,死生亦大矣,重于泰山,軽于鸿毛,抑何故郷,嗟乎!人孰無死,為贵得其所耳,為国難
死,与疾病而死,均死也湮没無聞,何足道哉,若墓中人,愛国愛郷不屈强暴,宁為玉碎,不作瓦全,从容就義
其馨香奕世,万流景仰,宜也,吾人感其義烈。公題其墓,曰:三灶抗敵殉難人民之墓,非偶然也。
独是乱离初定,满目瘡痍,虽有西伯深仁,難求将伯之助,所幸旅外僑梓胞為懐,愛郷念切,登高一呼,金囊
慨集,鸠工已成,英霊永奠,瞻仰百世,岂不盛哉。
時在民国三十八年六月初五日合郷绅耆
民衆与旅外僑胞主持遷葬永留紀念
廖玉池谨志 香江伍植伯刻
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