第10回海南島「現地調査」における証言の記録
第10回海南島「現地調査」(2006年3月19日~4月6日)における証言の記録です。
劉仁〇さん(88歳、中和鎮T村、2006年3月24日)
「(逃げ遅れた)村びとが全部殺された。首を切られた。首とからだが離れた。(その場所は)どこかわからなくなってしまった。当時、この村は100戸くらい。外へ逃げて、餓死した人もいる。夫の妹も餓死した。夫とは別々のところに逃げて、2年間くらい会えなかった。
ひとりで日本人の製糖工場で働いて、1日、おにぎりしか食べられなかった。夫と再会してから、製糖工場から離れて、山奥に逃げて暮らした。製糖工場では、給料はなかった。おにぎりだけ。
製糖工場には台湾人もいた。人数はわからない。
日本人は犬を連れていて、おじぎをしなかったら、犬にかませるのを見た。日本人と会ったら、先生と呼ばなくてはいけなかった」。
劉仁〇さんにはじめてお会いしたのは、2003年4月1日で、3年ぶりに再訪した。前回訪ねてきたことを覚えていた。眼は、ほとんど見えないようだった。劉仁之さんの家で、わたしたちのドキュメンタリーを上映させていただいた。村の人たちが、おおぜい見にきてくれた。
2、汪東〇さん(76歳、中和鎮T村、2006年3月24日)
「姉はとてもきれいで、日本人から嫁に来てくれと言われた。姉はいま82歳。日本人が家に来て兄さんを連れていった。兄さんを返してもらうかわりに、姉さんを連れていくことにしたが、兄さんが家に戻ってみんなで山に逃げた。
日本人にこの話をして、少しすっとした」
劉仁〇さんの家でドキュメンタリーを見たあと、東坡村で日本人がつくった製糖工場跡を案内してくれながら。
第10回海南島「現地調査」(2006年3月19日~4月6日)における証言の記録です。
劉仁〇さん(88歳、中和鎮T村、2006年3月24日)
「(逃げ遅れた)村びとが全部殺された。首を切られた。首とからだが離れた。(その場所は)どこかわからなくなってしまった。当時、この村は100戸くらい。外へ逃げて、餓死した人もいる。夫の妹も餓死した。夫とは別々のところに逃げて、2年間くらい会えなかった。
ひとりで日本人の製糖工場で働いて、1日、おにぎりしか食べられなかった。夫と再会してから、製糖工場から離れて、山奥に逃げて暮らした。製糖工場では、給料はなかった。おにぎりだけ。
製糖工場には台湾人もいた。人数はわからない。
日本人は犬を連れていて、おじぎをしなかったら、犬にかませるのを見た。日本人と会ったら、先生と呼ばなくてはいけなかった」。
劉仁〇さんにはじめてお会いしたのは、2003年4月1日で、3年ぶりに再訪した。前回訪ねてきたことを覚えていた。眼は、ほとんど見えないようだった。劉仁之さんの家で、わたしたちのドキュメンタリーを上映させていただいた。村の人たちが、おおぜい見にきてくれた。
2、汪東〇さん(76歳、中和鎮T村、2006年3月24日)
「姉はとてもきれいで、日本人から嫁に来てくれと言われた。姉はいま82歳。日本人が家に来て兄さんを連れていった。兄さんを返してもらうかわりに、姉さんを連れていくことにしたが、兄さんが家に戻ってみんなで山に逃げた。
日本人にこの話をして、少しすっとした」
劉仁〇さんの家でドキュメンタリーを見たあと、東坡村で日本人がつくった製糖工場跡を案内してくれながら。
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