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三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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第10回海南島「現地調査」における証言の記録

2006年07月11日 | 海南島
第10回海南島「現地調査」における証言の記録 

第10回海南島「現地調査」(2006年3月19日~4月6日)における証言の記録です。

劉仁〇さん(88歳、中和鎮T村、2006年3月24日) 
「(逃げ遅れた)村びとが全部殺された。首を切られた。首とからだが離れた。(その場所は)どこかわからなくなってしまった。当時、この村は100戸くらい。外へ逃げて、餓死した人もいる。夫の妹も餓死した。夫とは別々のところに逃げて、2年間くらい会えなかった。

ひとりで日本人の製糖工場で働いて、1日、おにぎりしか食べられなかった。夫と再会してから、製糖工場から離れて、山奥に逃げて暮らした。製糖工場では、給料はなかった。おにぎりだけ。
製糖工場には台湾人もいた。人数はわからない。
日本人は犬を連れていて、おじぎをしなかったら、犬にかませるのを見た。日本人と会ったら、先生と呼ばなくてはいけなかった」。

劉仁〇さんにはじめてお会いしたのは、2003年4月1日で、3年ぶりに再訪した。前回訪ねてきたことを覚えていた。眼は、ほとんど見えないようだった。劉仁之さんの家で、わたしたちのドキュメンタリーを上映させていただいた。村の人たちが、おおぜい見にきてくれた。

2、汪東〇さん(76歳、中和鎮T村、2006年3月24日)
「姉はとてもきれいで、日本人から嫁に来てくれと言われた。姉はいま82歳。日本人が家に来て兄さんを連れていった。兄さんを返してもらうかわりに、姉さんを連れていくことにしたが、兄さんが家に戻ってみんなで山に逃げた。
日本人にこの話をして、少しすっとした」

劉仁〇さんの家でドキュメンタリーを見たあと、東坡村で日本人がつくった製糖工場跡を案内してくれながら。



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