日本で公開されている「広東裁判」・「香港裁判」・「横浜裁判」にかんする文書は、極めて限られています。
防衛研究所戦史研究センター史料室(旧、防衛研究所図書館)で公開されている関係文書はほとんどありません。
外務省外交資料館で公開されている『本邦戦争犯罪人裁判関係雑件』、『本邦戦犯裁判関係雑件』、『外地における本邦人の軍事裁判関係』などには、いくらか関係文書がふくまれており、『外地における本邦人の軍事裁判関係 中国ノ部』には、海南島で逮捕された日本兵にかんして書かれた文書(1948年5月7日付けで、第二復員局残務処理部業務課長が連絡調整中央事務局第三部戦争裁判課長あてにだした「中国に於ける戦犯処刑者公表方申請の件依頼」)がふくまれています。この文書は、日本海軍の用紙を使ってつくられています。日本海軍省は1945年12月に第二復員省となり、第二復員省は1946年6月に復員庁第二復員局となっていました。
「中国に於ける戦犯処刑者公表方申請の件依頼」に添付されている「(別紙)要処理者名簿」には、海南警備府第15警備隊の大尉A、大尉B、中尉Cが1947年7月26日に、佐世保鎮守府第8特別陸戦隊の巡査部長Dが1947年5月10日に、中尉Eが1947年9月8日に、海南島の「邦人」Fが1947年4月21日に広東で死刑を執行されたと書かれています。
またこの「名簿」には、海南島施設部の軍属Gが海南島の三亜で「新編十九師司令部特務連に抑留中の処1946年9月頃銃殺せられたと」(原文、元号使用)と書かれており、1945年12月11日に12年の刑の判決を受けていた海南海軍警察の少尉H、海南島施設部の技工士IとJの3人が「(1946年6月6日に)海南島瓊山県政府監視所付近ニテ逃亡中射殺サレタリ」と書かれており、海南島施設部技工士Kが「同右逃亡事件により負傷6月8日死亡」と書かれており、海南特務部の巡査Lが「(1946年11月16日に)抑留中病死」と書かれており、海南島施設部の工員Mが「(1946年11月5日に)抑留中病死」と書かれています。
この名簿の人名は、すべて塗りつぶされています。
佐藤正人
防衛研究所戦史研究センター史料室(旧、防衛研究所図書館)で公開されている関係文書はほとんどありません。
外務省外交資料館で公開されている『本邦戦争犯罪人裁判関係雑件』、『本邦戦犯裁判関係雑件』、『外地における本邦人の軍事裁判関係』などには、いくらか関係文書がふくまれており、『外地における本邦人の軍事裁判関係 中国ノ部』には、海南島で逮捕された日本兵にかんして書かれた文書(1948年5月7日付けで、第二復員局残務処理部業務課長が連絡調整中央事務局第三部戦争裁判課長あてにだした「中国に於ける戦犯処刑者公表方申請の件依頼」)がふくまれています。この文書は、日本海軍の用紙を使ってつくられています。日本海軍省は1945年12月に第二復員省となり、第二復員省は1946年6月に復員庁第二復員局となっていました。
「中国に於ける戦犯処刑者公表方申請の件依頼」に添付されている「(別紙)要処理者名簿」には、海南警備府第15警備隊の大尉A、大尉B、中尉Cが1947年7月26日に、佐世保鎮守府第8特別陸戦隊の巡査部長Dが1947年5月10日に、中尉Eが1947年9月8日に、海南島の「邦人」Fが1947年4月21日に広東で死刑を執行されたと書かれています。
またこの「名簿」には、海南島施設部の軍属Gが海南島の三亜で「新編十九師司令部特務連に抑留中の処1946年9月頃銃殺せられたと」(原文、元号使用)と書かれており、1945年12月11日に12年の刑の判決を受けていた海南海軍警察の少尉H、海南島施設部の技工士IとJの3人が「(1946年6月6日に)海南島瓊山県政府監視所付近ニテ逃亡中射殺サレタリ」と書かれており、海南島施設部技工士Kが「同右逃亡事件により負傷6月8日死亡」と書かれており、海南特務部の巡査Lが「(1946年11月16日に)抑留中病死」と書かれており、海南島施設部の工員Mが「(1946年11月5日に)抑留中病死」と書かれています。
この名簿の人名は、すべて塗りつぶされています。
佐藤正人
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