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三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

「朝鮮村」1998年6月~2012年11月 23

2012年12月29日 | 「朝鮮報国隊」
■紀州鉱山の真実を明らかにする会による「朝鮮村試掘」までの道程 14
 2005年9月、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、9回目の海南島「現地調査」をおこなった。紀州鉱山の真実を明らかにする会は、1998年6月から、海南島における日本の侵略犯罪の「現地調査」をおこなってきたが、調査すればするほど、知るべきことが多くなってきた。
 海南島と韓国と日本で、わたしたちが日本の海南島侵略の実態を追求していた7年余のあいだに、国民国家日本の他地域・他国侵略の国家・社会体制は強化された。
 1999年5月に、日本の「周辺」(実際には、世界全地域)侵略ための国内法である「周辺事態法」が成立し、その3か月後、1999年8月に「ヒノマル」「キミガヨ」が「国旗」・「国歌」とされた。2001年12月2日昼、日本軍艦「はまな」が、アラビア海で作戦行動中のUSA海軍の補給船に燃料を洋上補給し、日本軍が、アフガニスタン侵略戦争・民衆殺戮に直接荷担した。これは、アジア太平洋戦争後はじめての日本軍海外参戦であった。2004年1月から、日本軍はイラクに侵入しつづけていた。
 2005年秋、海南島に着いた翌日、わたしたちは万寧に行き、蔡徳佳さん(『パトローネ』50号を見てください)に案内されて、朱進春さんから話を聞かせていただいた。
 日本軍は、1945年4月13日未明、万寧県城から3キロ南の月塘村に侵入し、村人286人を殺した。このとき、朱進春さんは、日本刀で8か所傷つけられたが、生き残ることができた。「月塘村惨案」の日本政府の責任を追及する訴訟を起こしたいと、朱進春さんは言った。
 万寧北方の六連嶺地域には抗日軍の根拠地があった。日本軍はその地域の村々を襲撃し、抗日軍を支援したとして村民を虐殺し、家屋を焼き、村を無人化していった。万寧県政協文史弁公室編『鉄蹄下的血泪仇(日軍侵万暴行史料専輯)』(1995年刊)には、日本軍は万寧県で8000人以上の無辜の民衆を殺害したと書かれている。この地域を占領していたのは日本海軍佐世保鎮守府第8特別陸戦隊であった。
 佐世保市内にある「海軍墓地」には、この陸戦隊の死者の碑があり、その横に1983年に建てられた「佐世保鎮守府第八特別陸戦隊戦没者慰霊名碑」には、約300人の名が刻まれている。そのうち10人は沖縄人、55人は台湾人である。朝鮮人の名はない。
 碑文には、「佐八特は……約六年有余炎熱と険しい“ジヤングル”をものともせず勇戦奮闘した。この間幾多の討伐作戦等に尊い戦没者出すに至った」と書かれている。

 海南島中央の瓊中黎族苗族自治県は山岳地帯で、各地に抗日武装部隊の根拠地がおかれていた。日本軍は、抗日軍の兵站を破壊しようとして、空と陸から激しく山間部の村々を襲撃した。
 瓊中黎族苗族自治県の烏石で、わたしたちは、たくさんの人から話を聞かせていただいた。夫を殺された女性、父と兄を殺された女性……。陳玉金さんは、1944年冬に日本兵に刀で刺された数箇所の傷跡を見せてくれた。
 車が入らない道をオートバイで1時間くらい山中にはいり、里塞村の王玉金さん(74歳)に話を聞かせてもらった。侵入してきた日本軍はそこにも陣地を築いたという。また、日本軍は、近くの村に住む黎族の女性を性奴隷としたという。

 海南島に侵入した日本軍隊の性奴隷とされた林亜金さん、陳亜扁さん、黄有良さんら8人は、2001年7月に、日本国に謝罪と賠償を求める「海南島戦時性暴力被害裁判」をおこした。2005年3月16日、林亜金さんと張応勇さんが、東京地裁で日本軍の犯罪を証言した。2002年10月、わたしたちは、陵水黎族自治県祖関の陳亜扁さんの自宅を訪問し、話を聞かせていただいたが、2005年秋に再訪した。
 陳亜扁さんは、前年、胃病で入院したが回復し、“日本政府に責任をとらせるまでは死なない”と言った。陳亜扁さんの家の近くに日本軍の兵舎があったという。
 8人の原告のうち、譚玉蓮さんは、2003年12月に、黄玉鳳さんは、2004年9月に亡くなられた。黄玉鳳さんは、2002年10月にお会いしたときには、お元気そうだったが。
張応勇さんと保亭黎族苗族自治県羅葵の林亜金さんの自宅を訪問し、その帰路、張応勇さんに南林の旧日本軍兵営跡などを案内してもらった。林亜金さんが監禁された「慰安所」があった什浪の位置を確認することができた。
 陵水黎族自治県田仔郷で、雨が強く降るなか、黄有良さんの自宅を訪ねた。黄有良さんが日本政府を被告として訴訟提起する6年前に、政協陵水黎族自治県委員会文史学習委員会編『日軍侵陵暴行実録』(1995年)に「一位“慰安婦”的血和泪」(黄有良口述、胡月玲整理)が発表されていた。突然訪れたわたしたちを、黄有良さんは、穏やかな表情でむかえてくれた。黄有良さんと同じように日本軍兵士に襲われた陳有紅という少女は、くりかえされる性暴力によって殺されたという。

 三亜からバスに乗り継いで、文昌に行き、現在の海南島地図にない東坡村を探した。旧日本軍の地図には、第15警備隊駐屯地の一つとして記載されている。
 わたしたちが東坡村を探したのは、東坡村に侵入していた第15警備隊所属の海軍警察官であった松島貫吾氏(1919年生)から証言を聞いたことがあったからである(このブログの2011年9月5日の「海南島文昌市東閣鎮 1」をみてください)。
 わたしたちが、2004年8月に自宅に尋ねたとき、松島氏は、
   「東坡の第一分遣大隊におって、3階建ての望楼で寝泊りした。
    市場で、豚肉などを徴発した。望楼は村人につくらせた。
    嫌がったら叩かなあかん。日当も食事もださない。
    日本軍が東坡で人を殺したことはない。
    共産党員を探しに行った村で鶏を殺して食った……」
と語っていた。
 東坡村の日本軍望楼は壊されていたが、敷石の一部が残されていた。
わたしたちは、黄循桂さん(1925年生)、黄循昌さん(1931年生)らから、当時の話を聞かせていただいた。その内容の一端は次のとおりである。
   “日本軍は、黄循桂さんらの家を壊して、高さ約25メートル、幅約20メートルの望楼をつく
   った。東坡村には100人以上の日本兵がいた。共産ゲリラだといって、日本軍は連行して
   きた人たちをたくさん殺した。殺害場所は、いま東坡小学校が建っているところだ”。
 
 1939年に日本軍が侵入したとき、海南島南部の最大の都市は、崖県であった。日本軍は、そこに軍司令部をおき、数年後に三亜に移した。崖県の旧日本軍司令部跡は小学校になっていたが、その門柱のそばに、当時の樹が残っていた。崖県の日本軍司令部の近くに数か所あった「慰安所」のうち2か所の建物が現存していた。華南荘という名の「慰安所」で少年のとき掃除などの仕事をしていた湯有光さん(1921年生)に出会った。

 村委員会の全面的協力によって、三亜市回新村で、9月13日に、ドキュメンタリー『日本が占領した海南島で 60年まえは昨日のこと』の上映会を開くことができた。
 『南国都市報』2005年9月9日号に掲載された「日韓学者再次来瓊掲露日軍侵華暴行:本月13日将在三亜回新村放映日軍侵略海南島記録」を見て回新村で上映会があるのを知った人が、当日来てくれて、会場整備を手伝ってくれた。
 9月6日に回新村委員会の人たちに、上映会のお願いをあらかじめしたのだが、その話し合いの最中に、村委員会の人が、哈秉尭さんをオートバイで迎えにいってくれた。回新村で生まれた哈秉尭さんに、これまでわたしたちは何回もお会いし、「朝鮮報国隊」の労働の様子や殺された人の話、宿所の場所、日本軍司令部の場所などを教えていただいていた。
 回新村での上映会は、雨上がりの午後8時過ぎから、村入り口の建物の白壁に投射した大画面で、野外でおこなった。
さまざまの年齢の人たちがあつまってくれた。証言の声と、音楽、ナレーションが響きわたる暗闇で、静かに画面を見つづける人、自分の記憶を語りながら見る人……。
上映会の翌日、回新村に隣接している旧日本軍三亜飛行場跡に行った。当時の給水塔が残っていた。9月16日には、海口にある海南師範大学で、王裕秋さんの協力で、ドキュメンタリー上映会を行なった。学生会の担当者が、屋外の白い壁に大きく投影した。参加者は300人あまりだった。

 こんども、「朝鮮村」で、朝鮮人虐殺にかんするあらたな証言を聞くことができた。なんど訪れても、はじめて知る事実がある。証言者(村人)との信頼関係が深まるにつれて、事実に接近できるのだということを、あらためて実感した。
 日本政府は、「朝鮮村虐殺」をおこなった海南島駐屯日本海軍第16警備隊の隊員名簿を公表しようとしていない。
今回の「現地調査」には、海南大学の李琳さん・銭家英さんが参加した。李琳さんは、1997年に「日本占領海南及其対資源的開発和掠奪」を発表している。李琳さんは、「日本人がなぜあのように残酷なことをやれたのか、理解できない」と、わたしたちに語った。
 また、今回の「現地調査」に3日間だけではあったが、海南島戦時性暴力被害訴訟の支援をしているハイナンNETの山田祥子さん(仮名)と鈴木良絵さん(仮名)が参加した。二人は、日本の侵略責任を自分の問題として考えようとしていた。この二人も、同行取材した『海南日報』の周元記者も若い世代だった。
 2003年春に同行取材した『海南日報』の陳超記者・許春眉記者も、紀州鉱山の真実を明らかにする会の若い世代である日置まり子さんや久保雅和さんと同世代だった。
10代、20代の若い人たちが、真実をともに明らかにし、歴史的責任のありかを追求する試みが継続的に進められている。

 周元記者は「日本有個“海南NET”」(『海南日報』9月14日)という記事でハイナンNETを紹介した。つづいて同記者の「日韓学者結束尋訪日軍侵瓊罪証之行、他們表示:我們還会再来」が『海南日報』(9月16日)に掲載された。9月17日に中国新聞社王辛莉記者の「日本学者十下天涯 追査日軍侵瓊真相」という記事が配信された。

 わたしたちは、日本で、旧日本軍兵士ら日本人加害者からの聞きとりをおこなおうとするとともに、防衛研究所図書館、外交資料館、矯正図書館などで加害の記録文書を探索してきた。しかし、隠されている侵略犯罪記録のおおくは公開されておらず、日本に「帰還」した旧日本軍兵士たちは、沈黙しつづけたまま、おおくが自然死している。
 日本の侵略犯罪の調査を、朝鮮人と日本人が共同しておこなうとき、日本人は、海南島をも朝鮮をも日本が侵略していた歴史と向き合う。
 海南島の人びとにとって、朝鮮はおなじ被侵略国であり、日本は侵略国である。
 海南島の人たちと朝鮮人は共通の歴史的被害者であり、朝鮮人と中国人が海南島で聞きとりするのは、歴史的被害者が歴史的被害者から聞きとりすることである。日本人が聞きとりする場合と、歴史的立場が根本的に違う。
 死者からは、聞きとりできない。海南島で犠牲者の遺族や侵略犯罪の目撃者から聞きとりを続ける時間のなかで、おおくの出会いがあり、別れがあった。海南島においても、わたしたちは、自分たちの歴史的位置をたしかめつつ、国民国家日本の世界的規模の他地域・他国侵略と実践的に対決しようとしてきた。
                                             佐藤正人

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