三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

「強制動員被害者のキム・ジェリムさん、死んでも日本の謝罪を必ず受けると誓った」

2023年08月10日 | 国民国家日本の侵略犯罪
「The Hankyoreh」 2023-08-09 11:33
■「強制動員被害者のキム・ジェリムさん、死んでも日本の謝罪を必ず受けると誓った」
 [寄稿]強制動員被害者の故キム・ジェリムさんを悼んで

【写真】故人(車椅子に座った右側)とヤン・クムドクさん(左側)が2018年に三菱重工業を相手取って起こした損害賠償訴訟の抗告審で勝訴し、光州高等裁判所の入り口で写真を撮った=チャン・ホングォン牧師提供//ハンギョレ新聞社

 勉強させてくれるという「飴」にだまされ 
 1944年、三菱重工業に強制動員 
 一日中労働しても賃金は一銭ももらえず 
 2014年、三菱を相手取って損害賠償訴訟 
 二審に勝訴、最高裁の判決を見ることなく死去 
 「いつも優しく、たくさんの愛を与えてくれた」

 「振り返れば痛恨の歳月だった。日帝の侵略によって祖国の地は無残に蹂躙され…数千の地下の坑道で、見知らぬ土地の工事現場で…人生の黄昏に至ったおばあさんたちのやせ細った肩を見よ。…振り返ってみよ、光州が抱かなければならない歴史的使命であり責務だ…」(2009年3月12日)。
 「勤労挺身隊ハルモニと共にする市民の会」の結成文だ。筆者は結成準備会の時から共にし、現在諮問委員をしている。
 14年という歳月の中で被害者が一人また一人とこの世を去ることが、さらに無念であり悔しい。そのうちの一人のキム・ジェリムさんは、先月30日に93歳で亡くなった。日帝強占期(日本の植民地時代)、戦犯企業である三菱に連れて行かれた。
 故人は1930年、全羅南道和順郡綾州面(ファスングン・ヌンジュミョン)で生まれた。1男4女のうち4番目。キム・ジェリムさんは常に勉強がしたかった。1944年、綾州公立国民学校(現和順郡綾州小)卒業後、光州の不老洞(ブルロドン)の叔父の家で家事を手伝っていた。強制動員された方々の共通点は、日本に行けば勉強もさせてくれ、ご飯も食べさせてくれるという「飴」で誘惑されたことだ。キムさんは食べることよりも、勉強させてくれるという言葉に引かれ日本へ向かった。三菱重工業名古屋航空機製作所で働いた。14歳の幼い少女が、軍用飛行機の付属品製造で一日中酷使された。飛行機の胴体にペンキを塗り、飛行機の付属品を削って、一日中つらい労働をして宿舎に帰ってくると、体を支えることもできない状態になった。
 夜も夜間空襲に備えるため、昼間に着た服に補助カバンをかけ靴を履いたままで横にならなければならなかった。このように空腹と重労働で過酷な日々を送る中、キム・ジェリムさんは1944年12月7日、地震だ、逃げろという叫び声を聞いた。その声を聞いたキムさんは従姉と手を取り合って工場から脱出した。しかし、崩れる建物の山の間で従姉の手を離してしまった。結局、キムさんは九死に一生を得て救出された。しかし従姉は助けることができなかった。

【写真】故キム・ジェリムさん//ハンギョレ新聞社

 解放後、故郷に帰ってきたが、きつい社会の視線が心を苦しめた。「慰安婦」と誤解されるのではないか、いつも気が重かったという。経済的な困難もあった。故人は日本で賃金を一銭も受け取れなかった。
 キム・ジェリムさんは2014年から三菱重工業を相手に損害賠償訴訟を始めたが、謝罪どころか賠償を一銭も受けられずに亡くなった。無念で悔しいばかりだ。
 2017年8月5日、キム・ジェリムさんをはじめとする原告4人が三菱重工業を相手取って起こした損害賠償訴訟の一審で、原告の一部勝訴判決が下された。当時キムさんは87歳だった。その時も非常に暑かった。筆者も法廷でキムさんと一緒にいた。記者会見をするために裁判所の正門入口の椅子に座っていたキムさんは、汗を流していた。それで筆者はハンカチを差し出した。その後しばらく経った頃、市民の会の共同代表を通じて、きれいに洗濯して返してくれた。そのようにキムさんは清潔で几帳面で、たくさんの愛を与えて下さった。いつも優しく、人情深い方だった。
 2018年12月5日、光州高等裁判所で各自に1億ウォンずつの賠償を命じる原告勝訴判決が下された。その後、三菱重工業の上告で最高裁の判決を待っていたが、キムさんはこの世を去った。司法府が本来の役割を果たせずぐずぐずしている間に、強制動員された人たちはこうして倒れていっている。もしかしたら、現在もわが民族は日本に強制徴用されているのかもしれない。被害者たちは一人また一人と亡くなりつつあるが、尹錫悦(ユン・ソクヨル)政権は強制動員に関し屈辱外交を通じて、お門違いにも賠償責任を韓国政府が肩代わりするとし、判決金を受け取るよう促している。
 キム・ジェリムさんが亡くなり、ヤン・クムドクさん、イ・チュンシクさんなど被害者たちもさまざまな病魔と闘っている。キム・ジェリムさんは、死んでも日本の謝罪を必ず受けるという誓いの中、天国に旅立たれた。これ以上無念さを抱くことがないよう、日本は謝罪と賠償をし、最高裁は速やかに判決せよ。それが強制動員で無念に死んだ被害者に対する最後の礼儀だ。
チャン・ホングォン|牧師・日帝強制動員市民の会諮問委員
韓国語原文入力:2023-08-09 02:36


「聯合ニュース」 2023.07.31 09:31
■徴用被害者の韓国人女性が死去 三菱重工に動員
【光州聯合ニュース】日本による植民地時代の韓国人徴用被害者、キム・ジェリムさんが死去した。93歳だった。

【写真】キム・ジェリムさん(日帝強制動員市民の集まり提供)=(聯合ニュース)

 韓国市民団体「日帝強制動員市民の集まり」によると、キムさんは30日に亡くなった。
 キムさんは1944年3月に小学校を卒業後、同5月に三菱重工業の名古屋航空機製作所に動員された。日本人の募集担当者から「日本に行けば勉強できる」と勧誘されて日本に渡ったが、同製作所で部品を削ったり、塗装したりするなど1日中働かされた。終戦による植民地支配からの解放後に帰国。夫との結婚生活に大きな困難はなかったが徴用被害者を「慰安婦」と誤解する人が多かった。
 キムさんは生前、強制労働させられたときを振り返り、「なぜ幼い子たちにあんなことをしたのか、なぜ今まで謝罪の言葉が一切ないのか理解できない」と語っていた。
 キムさんは2014年2月に三菱重工業を相手取り提訴した損害賠償訴訟の原告4人のうちの1人。
 一・二審では同社に対し、原告1人当たり1億ウォン(約1100万円)から1億5000万ウォンの賠償を命じる判決が言い渡された。現在は大法院(最高裁)で係争中となっている。


「The Hankyoreh」 2023-07-31 06:53
■三菱重工強制労働被害者キム・ジェリムさん、謝罪聞けずに死去
 第2次損害賠償請求訴訟の原告

【写真】日本の戦争犯罪企業のひとつの三菱重工を相手取って韓国で損害賠償訴訟を起こした故キム・ジェリムさんが、2017年4月、裁判を前に被害事実を証言しつつ涙を流している=日帝強制動員市民の会提供//ハンギョレ新聞社

 日本の戦争犯罪企業のひとつである三菱重工を相手取って訴訟(第2次)を起こし、最高裁判決を待っていた強制動員被害者のキム・ジェリムさんが、謝罪と賠償を受けることなく亡くなった。享年93。
 日帝強制動員市民の会は30日、キムさんが老衰で同日未明に死去したことを明らかにした。全羅南道和順郡(ファスングン)で生まれたキムさんは、1944年3月に和順の綾州初等学校を卒業後、光州(クァンジュ)の親戚の家で家事を手伝っていたが、同年5月に三菱重工名古屋航空機製作所に動員された。キムさんは生前、「伯父の家で伯母の娘など同い年のいとこたちと暮らしていたところ、日本人が来て『日本に行けばご飯をお腹いっぱい食べさせてくれて勉強もさせてくれる』と言った」、「食べることよりも勉強がしたくて応じた」と証言していた。
 キムさんは、光州駅から乗った汽車が故郷の綾州(ヌンジュ)駅を通る時に日本行きを後悔したが、すでに手遅れだったと語った。キムさんは日本到着後、名古屋の三菱重工でまともに立っていられなくなるまで一日中働かされた。主に軍用飛行機の付属品を削ったり、飛行機の翼を塗装したりする仕事だった。苦しい顔をすると日本人たちは「働きたくないから疲れたふりをしている」と言って食事をくれなかった。夜にはいつ鳴るか分からない空襲警報に備えなければならなかったため、作業服を着て靴も履いたまま寝たという。
 1944年12月7日の東南海地震では、共に日本に渡った従姉のイ・ジョンスクさんを失った。キムさんは生前のインタビューで「昼食を食べはじめて間もなく誰かが『逃げろ』と叫び、従姉の手を握って走っている途中であちこちで建物が崩れはじめたため、怖くて従姉の手を放してしまった」、「建物のがれきに閉じ込められてしまったが、幸い片方の足が外に出たため救助隊に発見され助かった。でも従姉は死んでしまった」と回想した。
 解放後、賃金を受け取れないまま帰郷したが、日本軍慰安婦と勤労挺身隊を区別しない当時の社会的視線のせいで、またしても苦しまなければならなかった。キムさんは「私が日本に行っていたということを知って、姑は結婚に非常に反対した」、「幸い夫とは大きな困難なく結婚生活を送ったが、生涯を通じて人から慰安婦と誤解されるのではないかと心配で、一瞬たりとも気が休まらなかった」と語った。
 キムさんは2014年2月27日、シム・ソネさん(2019年死去、享年88)、ヤン・ヨンスさん(今年5月死去、享年94)、故オ・ギレさんの弟のオ・チョルソクさん(88)とともに韓国で三菱重工を相手取って損害賠償訴訟を起こした。2012年にヤン・クムドクさん(94)ら5人の被害者が起こした第1次訴訟に続く第2次訴訟だ。第2次訴訟の原告たちは訴訟に必要な強制動員の被害事実を立証するため日本政府に厚生年金の記録を申請したが、日本年金機構は2015年2月、解放当時の額面価格である199円(1800ウォン)を厚生年金脱退手当として各原告に支給し、社会的批判を浴びた。第2次訴訟は2018年12月5日、光州高等裁判所が原告1人当たり1億ウォンの賠償を命じる原告勝訴の判決を下したが、三菱重工が上告したため原告は最高裁判決を待っていた。
 遺族には1男1女がいる。葬儀は光州西区(ソグ)の国賓葬礼文化院で行われ、出棺は来月1日午前8時30分。埋葬地は国立ソウル顕忠院。
キム・ヨンヒ記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
韓国語原文入力:2023-07-30 15:29


「中央日報日本語版」 2023.07.31 07:01
■強制動員被害者のキム・ジェリムさん死去

【写真】キム・ジェリムさん

 日帝強制動員被害者のキム・ジェリムさん(93)が30日、老衰で亡くなった。
 キムさんは1944年5月、三菱重工業の名古屋航空機製作所に動員されて労役した。2018年12月、三菱重工業を相手取った損害賠償訴訟で勝訴判決を受けた。三菱重工業側の上告で現在最高裁に係留中だ。葬儀場は光州(クァンジュ)国賓葬儀文化院、出棺は8月1日、埋葬地は国立ソウル顕忠院(ヒョンチュンウォン)だ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする