三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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「<光復75周年-日帝強制動員、奪われた家族2> 「死ぬまで叫び続けます、父の命の代償を返せと」」

2020年08月22日 | 国民国家日本の侵略犯罪
https://japanese.joins.com/JArticle/269454?servcode=A00&sectcode=A10
https://japanese.joins.com/JArticle/269455?servcode=A00&sectcode=A10
「中央日報日本語版」 2020.08.21 14:07 
■<光復75周年-日帝強制動員、奪われた家族2>「死ぬまで叫び続けます、父の命の代償を返せと」

【写真】キム・インソンさんは新型コロナウイルス(新型肺炎)で都心の集会が禁止される前まで青瓦台前で99回の火曜集会を開いた。韓日協定が締結された日が火曜日ということで火曜集会に決めた。父親を強制連行した日本も、韓日協定の時に受け取った日本の金を強制動員被害者に分けない政府も、その金を受け取って栄えた企業も、全て彼の闘争対象だ。光復(解放)75周年前日の14日、青瓦台前の噴水台で1人デモをするキム・インソンさん。イム・ヒョンドン記者

 2018年4月10日火曜日。その人が「命をかけた」と表現する青瓦台前の抗議集会が始まった。初めての集会を火曜日に決めたのは、韓日協定が締結された日が火曜日だったからだ。デモ用に改造したトラックに上った彼がマイクを握った。
 「日帝強制動員被害国民は号泣している!韓日協定請求権資金無償3億ドルは私たちの父の命の代償だ!政府は恨(ハン)が極に達した被害国民と遺族たちに3億ドルを現在の価値に換算し、今すぐ返還せよ!」。
 一日も欠かさず、大雨が降ろうと雪が降ろうと、毎週火曜日午前11時、青瓦台(チョンワデ、大統領府)前の集会を99回まで続けてきた彼は強制動員被害者・故キム・パンゲさんの息子キム・インソンさん(80)だ。
 「私は弁が立つ人間ではありません。ですがデモが始まれば何時間でも言葉が出てきます。被害英霊が私を見守ってくれているという感じがします。ただの一度も、天気のせいでデモを中断したことがありません。だから言うのです。『見よ、英霊たちが助けてくださっているではないか』と」。
 あと一週間で100回を達成するという時点だった。新型コロナウイルス(新型肺炎)が猛威をふるい、都心集会禁止が下された。集会は無期限延期となるよりほかなかった。
 「私の父は1942年6月に連れて行かれました。解放を迎えても便りがなかったのでみんな死んだと思っていたそうです。パプアニューギニアまで軍属として連れて行かれた父は47年に帰ってきます。密林の中でどうにか命をつないで日本に入り、貨物船に乗って韓国に密航をしましたが、農産物を積んできた船が波風によって座礁すると、3日間を海に漂うカボチャを食べて生き延びたと聞きました」。
 帰ってきた父親は1949年警察に入り、順天(スンチョン)警察署で最初の服務を始める。しかし、韓国戦争(朝鮮戦争)が勃発し、智異山(チリサン)白鵝山(ペクアサン)の戦いで戦死し、短い警察生活を閉じた。1951年9月21日、キム・インソンさんが11歳の時だった。
 父親がいないこともわびしかったが、どこへ行っても「父なし子」と言われながら大きくなければならなかった。それだけは耐えることができず、性格が乱暴になり、荒んだ青少年期を送った17歳、今度は母親が亡くなる。祖父まで長男を失った火病で徐々に体を蝕み亡くなると、家勢が傾き始める。彼は2人の弟を世話しなければならない21歳の青年になっていた。
 「あらゆる辛酸をなめました。母は生まれつき淡々とした性格でしたが、父は本当に優しかった。戻ってきた後、短い数年間、父にかわいがってもらいましたが…」
 「戻ってきた父は…」と話を続けようとした瞬間、頭を下げた彼の目に涙が光った。波乱の歴史をくぐり抜けなければならなかった世代の心の奥にしまい込まれた悲痛の深さを誰が分かるだろうか。
 「私は80年代初期から闘争に出ます。父は国を守って命を捧げましたが、国家は何か遺族にしてくれましたか。デモをすれば警察が地団駄を踏んでいる私たちを強制的にバスに押し込みますが、警察署に行くのではありません。遠く郊外まで乗せていってそこに私たちを置いていきます。あの時、金浦(キンポ)空港側が開発の真っ最中だったので、そこの空地に降ろし、逃げるように行ってしまいます。その時の警察はそうでした」
 バス停留場も見えない乱開発の原野を力なく歩いて通り抜けながら、命を捧げて国を守り、血気盛んな若さの絶頂で散っていった父の息子だという自尊感の中で生きた。
 80年代後半に法が整い、遺児手当てが支給される。その時キム・インソンさんは遺族側交渉代表として参加した。
 そして強制動員補償運動の第一線に出た。彼は韓日会談に対する文書を勉強して闘争の「鎧」をつくった。彼の矛先はポスコ〔浦項(ポハン)製鉄〕だった。ポスコは韓日請求権の資金を使った代表企業だった。「血の対価で建てられた工場が失敗すれば、私たちは全員、迎日湾(ヨンイルマン)に身を投げて死ななければならない」という朴泰俊(パク・テジュン)会長の悲壮な発言も知った。
 2006年4月、強制徴用被害者および遺族100人がポスコを相手取り損害賠償請求訴訟を起こす。キム・インソンさんは原告代表として参加したが敗訴した。ただし、調停に代わる判示があった。「被告人ポスコは強制動員被害者およびその遺族に対して企業の社会・倫理的責任がある」と指摘したのだ。
 ポスコが責任を履行しないのでキム・インソンさんはポスコ株主総会に進入する計画を立てる。2010年2月25日、株主ではないため出席自体が不可能な株主総会の入口を彼はスーツ老紳士の謹厳な一喝で突き抜けた。発言時間を得た彼は説得力ある発言で社会的責任を促し、「政府が制度的装置を用意してくれれば快く支援する」というポスコの公式立場を引き出す。
 このころ、政府は「太平洋戦争戦後国外強制動員犠牲者とその遺族らに人道的次元で慰労金などを支援」することにする。海外で死亡した者には2000万ウォン(現レートで178万円)、生還者のうち生存者には年80万ウォンの医療費が支給されることになった。
 しかし生還者のうち死亡者は対象から除外された。生きて帰ってきた父親がすでに亡くなっていたキム・インソンさんはただの一銭も受け取ることができなかった。

【写真】故キム・パンゲさんは日帝に軍属としてパプアニューギニアまで連れていかれた強制動員被害者だ。解放後、2年過ぎた1947年になってようやく九死に一生を得て生きて帰ってきて、警察に身を投じた。警察の制服を着ている生前のキム・パンゲさん。イム・ヒョンドン記者

 青瓦台前のデモを始めた時、彼に許された場所は遠く離れた清雲洞(チョンウンドン)事務所の前だった。
 「警察を訪ねて行ってこう言いました。私は、33歳で戦死したあなたがたの大先輩警察の息子だと。警察庁長官が授与した遺族記章1号を有している護国英霊の子孫だと。青瓦台まで私の声を届けなければならないので、場所を移してほしいと」
 警察の配慮で3回目のデモから青瓦台サランチェ横にデモ場所を移すことができた。ところが昨年のことだった。チョン・グァンフン牧師デモ隊がまさにその場所を占拠し、徹夜の座り込みに入っているではないか。
 「相手と私の間にひと悶着ありました。私のデモを邪魔する牧師のマイクを奪い取って投げると、そちら側のデモ隊がわっと駆け寄ってきます。年老いた私には方法がありません。手の甲の皮がむけて血が出て、体にも傷を負って。結局、警察が仲裁に出ました。この人の時間だけはあなたたちが中断しろと」。
 彼は青瓦台に対して「この強盗らめ、泥棒らめ!」。激しい言葉もはばからない。「お前たちが父の魂を売り飛ばしたんじゃないか!」。
 「悪口、ちゃんと聞いています」。青瓦台職員が笑って挨拶をする間柄になった。「韓国は泥棒野郎で、日本は臓物売買人だ!」この発言をもう少し穏便なものにできないかと言われたが、彼はむしろデモ装備を格上げしたと語った。
 父親のこと考えると今も涙がにじむ今日、戦争と分断で父親を失った悲劇も時間と共に流れて75年。自分は年を取り4男1女の子どもたちが育った。夢も期待も共に育ち、15人の孫に恵まれた。次男の娘が息子を産んで曽孫子を見ることもできた。今年は遅く結婚した長男の一人娘がソウル大学経営学科に入学して祖父を喜ばせた。
 今は娘と一緒にアパートで暮らし、老夫婦は友人のように過ごしているという。「お母さんと一緒に仲良く遊んで暮せばいいのに、その年齢で何のデモか」と言って小遣いを打ち切った息子もいるといった。
 「あきれるのは、請求権資金無償3億ドルが日帝被害者のものだと扇動した某弁護士が、2018年10月30日強制徴用大法院判決以降、その金は経済協力資金であり被害補償金ではないと言ったことです。某教授は、韓国政府も、支援を受けた企業も補償する責任がないといいます。私はこのような人々が私たち日帝被害者を分裂させる偽装活動家だと考えます。補償運動の障害物です」。
 強制動員被害者の遺族で、南北分断の悲劇の中で戦死した谷城(コクソン)警察署警衛の息子として、17歳で母親まで失った長男として2人の弟を見守り3重苦の人生を耐えてここまできた。しかし頭を下げることも、躊躇することもなかった。踏まれれば再び立ち上がり、殴られればもっと声を出して「響く鐘の音」となり生きてきた。その歳月ももう消失点を成し、背中の後ろ彼方に延びている。終わりのない抵抗の中で生きてきた日々が80歳の彼の肩に腕章のように光っている。
 「私は息絶えるその日までやる覚悟です。最後には国家の補償を手にすることでしょう」。彼が残りの人生をどのように生きていくか、それは情熱と根気、そして賢明さ次第ではなかろうか。私と別れて帰っていく彼の年齢を感じさせない後ろ姿をいつまでも見送った。彼が成し遂げようとしていることが、強制動員犠牲者とその遺族が75年間渇望してきた解決の糸口の一筋でも見つかるように願いながら。

※編集者の言葉
 「あっちが朝鮮だ」
 作家ハン・スサンの小説『軍艦島』は日本に連行された徴用工のこの言葉から始まる。中央日報光復75周年企画「日帝強制動員、奪われた家族」は徴用工がそれほど懐かしく思った「あっちの朝鮮」に残された息子・娘の話だ。彼の小説の中で、命をかけて軍艦島脱出を試みた朝鮮人は徴用工である前に一人の父だった。27年間の調査と考証の末、軍艦島に連行された父の死闘を小説として完成させたハン・スサン氏が、残された強制動員被害者の息子・娘の生存記を中央日報に記録する。
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