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三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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「海軍特別陸戦隊――海南島 台湾出身志願兵との絆」

2016年07月06日 | 海南島史研究
www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/.../O_10_384_1.pdf
平和祈念事業特別基金刊『平和の礎 軍人軍属短期在職者が語り継ぐ労苦(兵士編)第10巻』(1999年3月)
筆者:石川県 湊健一
■海軍特別陸戦隊――海南島 台湾出身志願兵との絆 
 私は小学生のころは中国の上海に住んでおり、海軍陸戦隊のラッパや鐘の音を聞いて暮らしていた。上海
事変の時には白い軍装で銃剣を持った水兵さんに学校まで送り迎えをしてもらったので、日本の軍隊は陸戦
隊であると思っていた。陸軍を知ったのは、親の故郷の金沢へ来て第九師団を見てからだった。
 一九四三年十月二日、大学・高等専門学校学生の徴兵延期が廃止になり、理工科系学生以外の文科系学生は十二月に陸海軍に入らなければならなくなる。これが、現在もニュース映画や写真に残る、いわゆる学徒出陣である。
 私は、十二月十日舞鶴海兵団に入団するように通知を受けていた。残された二ヵ月間、前途を思ったり、何をどうずればよいのか全く手がっかない毎日だった。
 十月二十一日、出陣学徒の壮行会が明治神宮外苑で行われた。学校の校庭でも在校生徒諸氏の壮行会が行われ、学生服に巻脚絆、帯剣を腰に締め、小銃を持って代々木の会場に向かった。小雨が降り出し黙々と列が進み、服は濡れて薄寒かった日である。
 やがて入口にさしかかると拍手の嵐であった。ハッと我れに返り見上げると神宮外苑のスタンドは拍手をする女学生で埋まり、髪から雨の雫が落ちて黒髪が光って見えた。分列行進が「抜刀隊」の行進曲に合わせて前進し、水溜まりも何のその、足が自然に高く上がり、泥のはねが背中の上までいっぱいになり我を忘れて進んだ。
 東條首相、文部大臣、陸・海軍大臣の激励の言葉、残る学生代表の送る言葉に、出陣学徒が答辞を述べ、「天皇陛下万歳」を三唱し解散した。
 文部省主催で挙行した学徒出陣壮行会には、東京周辺七十七校が参加した。出陣学徒兵の数は、全国で十万人余り。そして、この中の多くの学生が、陸に海に空に行って還らぬ人となったのである。
 一九九三年に「出陣学徒壮行の地」と刻まれた記念碑が国立競技場の一隅(千駄ヶ谷門内のマラソンゲート脇)に建てられた。
 十一月にもなると、母が上海から陸路数十回も乗り換え、朝鮮経由で私の所へ来てくれた。母の愛は強いものと、感激でいっぱいであった。学生服に名前が書かれた日の丸の旗を襷がけにして、私は母と共に親類へ挨拶、靖国神社、明治神宮等を参拝した。
 神社の境内や街にも多くの学生が歩いていた。皆の気持ちは私の気持ちと一緒であったろう。映画館では「無法松の一生」が上映されており、私は母と見る最後の映画になるかもしれないと思いながらこの映画を見た。無法松のひく「人力車の車輪の回転」が静かに止まる印象的なこの映画を忘れることが出来なかった。これが、母子二人の最後なのかと思う時、母の心の辛さを思いながらの一時であった。
 十一月中旬から帰京の学生の送別のため、上野、東京、新宿の駅前の広場は、毎日学生の波また波であった。また校歌・応援歌グループが多く出来、私もその中に入って「頑張ってくるぞ」「後を頼むぞ」の言葉を交わして別れたのである。
 十二月九日午後五時過ぎ、臨時列車が松任駅に着いた。この列車は、舞鶴海兵団へ入団する出陣兵の臨時列車であり、長野発各駅停車で東舞鶴へ向かう。「防諜のため静かにお見送りください」との駅員の声もいつしか「万歳」の声に変わり、私は列車の中へ入った。
 学生服に日の丸・奉公袋と同じ姿ではあるが、皆初対面である。学校も違うから各停車駅から乗り込んで来る。この人達と一緒に兵隊になるのかと思うと、少し不安になった。通過する駅を無言のまま外を見つめていると、暗闇の中に電灯の光が走る。不安とやりきれない気持ちでいっぱい、というのが私の偽らざる心境であった。
 やがて列車は東舞鶴駅に着いたが、まだ薄暗い。明けて十二月十日である。駅から、下士官に引率される。 四列縦隊の長い列である。足音だけがザックザックと続く静かな行進であった。海兵団の門をくぐり練兵場に整列。三階建ての黒い兵舎が夜明けとともに眼前に浮かんでくる。異様な圧力と緊張を感じた。
 これから三カ月余り、娑婆(一般社会)より兵隊になる猛烈訂練が始まった。吊床(ハンモック)訓練、短艇(カッター)訓練等忘れることの出来ない特訓である。時々、「何のためにするのか?」とも思ったが無我夢中であった。終了後、武山海兵団を経て、鬼と言われた千葉県館山海軍砲術学校での陸戦科の特訓。
 まさに鬼の館山の血の出るような実科訓練を受けたのである。我々は訓練期間が終わると同時に各前線の陸上、艦船に配属された。
 私の赴任した現地は、上海特別陸戦隊〜海南島であった。私の希望は少年時代過ごした上海、上海特別陸戦隊で、その希望がかなえられたのは幸せであった。
 神戸港より瀬戸内海を通り、大型輸送船に予科練の兵隊とともに玄界灘へ出る。直ちに対空・対潜の警戒体制に入り、朝鮮半島を右に見て海岸に沿って(潜水艦を避けて)第二の故郷上海に着く。
 上海特別陸戦隊より家への連絡は、家の隣家の田尻陸戦隊付剣道師範より伝えられた。家族の驚きと喜びは「お兄ちゃんが帰って来たよ」だった。まさか、上海へ来るとは夢にも思わず大騒ぎだったそうである。
 毎日、母の手料理で歓迎。海軍の話をするのが楽しみであったし、海軍に入って良かったなあとつくづく感じた。
 司令部中隊より呉淞砲台の近くのボ東砲台に変わった。この砲台は、上海空襲で砲台員全員が戦死した。
 母の引揚げ後の話では「上海にいたらあんたも戦死だったよ」とのことで、これも運命であったと、今も砲台員の冥福を祈っている。
 ボ東砲台勤務から一ヵ月余り過ぎた日、突然「海南島へ補充兵員五〇人と、機関銃四〇挺と共に上海派遣隊として直行すべし」の命令を受けた。駆逐艦「蓮」に便乗して海南島へ行く。家族には行先は秘密、「現地に着いてから連絡する」と言うと顔色が変わった。
 せっかく上海に着いたのにという父母の心は判るが、「絶対に言わぬから言ってくれ」と言われても、こればっかりは言えない。軍の秘密である。
 舟山列島を通過して台湾馬公着、軍票を積み香港着、海が美しく箱庭のようである。香港を出港した艦船は必ず空襲を受けるとのスパイの連絡があり、特別警戒に入る。水中探知器が潜水艦をキャッチ、爆音が聴こえる。空と水中との戦闘配置、艦が左右に蛇行するのがスクリューの回転によって夜光虫が白く光り、白い線を描いている。至近弾を二発受けたため全艦水びたしとなった。
 夜明けと共に椰子の茂る海南島三亜港の楡林港に着いた。やれやれとホッとする。七七ミリの機銃と兵員を各司令部へ配置、戦力増強となる。海南島は海岸線を確保し三亜飛行場、航空隊特攻基地、人間魚雷基地などがあったので、毎日、ロッキードP38、B29、グラマン、カーチス戦闘機の攻撃を受けた。
 十日に一度連絡に来ていた川西式飛行艇も来なくなり、制空権もなくなったと感じた。友軍機は空中退避するし、十二・七センチ高角砲も一万メートルの上空では届かない。そのため敵機は悠々と通過して行くが、残念ながらどうにもならない。
 海南島への攻撃は日に日に激しくなり、我々も銃爆撃の被害を受け緊迫した状況になってきた。
 しかし、兵員の補充が困難になったので「現地の台湾出身の民間人、軍属の中から志願兵を募集し、特訓して兵力を増強すべし」との通達により、試験の結果、優秀な者を海南島五ヵ所にて約九〇〇人余りを集め新兵教育を行うことになった。
 私は、第十六警備隊の中之島訓練所付を命ぜられ、一般内務、陸戦は同じであるが、カッター、吊床の訓練がなく、ジャングル戦、機関銃、挺進切り込みの実戦で間に合う訓練をした。私の担当は普通学科、数学、国語と陸戦であったが、教科書が無いので困った。昔を思い出して植木算、鶴亀算、平方根、ピタゴラスの定理等々、自分自身もわからない学科も教えなければならない。これならもっと勉強しておけばよかったとつくづく考えた。
 教育期間中は、外食、外からの差し入れ厳禁。新兵は皆空腹である。そこで陸戦訓練中にの近くで小休止して、三十分休憩する。その間に原住民の駄菓子屋と食堂で一息入れると皆頑張る。訓練中食べたビーフン(米の粉で作った麺類)の味は忘れられない。
 彼等は日本兵だから、台湾語は絶対に喋ってはいけない。名前も全員日本名に改名している。どこから見ても日本軍人である。高砂族出身もいたが、広東省出身者と福建省出身者とが分かれて争いが絶えぬのにも困った。
 教育終了後、十八歳から二十一歳までの若い兵士は、各部隊、各砲台、派遣隊の兵力の増強になり、日本兵の年輩の補充兵とは比較にならぬほど重宝がられ喜ばれた。台湾出身者は真面目に訓練を受け、大部分が軍人として立派に任務を遂行してくれた。
 私は四十人余りの志願兵と共に、海岸線防衛と治安維持の任務に就き、毎日戦車壕と防空、対上陸軍防衛のためのタコ壼を掘り、トーチカ、要塞の建設に従事した。ここが死に場所になると頑張り、皆と「運命を共にしよう」と語り合った。
 Y作戦の信号があり、「敵機動部隊・艦船が南シナ海を遊弋中、直ちに戦闘配置に就け」という命令である。全員武装し、食料として「おむすび」が配給され、敵の上陸を防ぐため死に場所へ行った。
 トーチカの中で眠れぬ夜が明けた頃「敵機動部隊は北上しつつ沖縄上陸す」との報で、Y作戦は中止となり、命が延びた。またゲリラ掃討のジャングルの討伐にも出動することが度々あった。日本は連合軍に包囲され、各地の戦線がだんだんに厳しくなってきた状況も無線などで知るようになった。
 いつ、米軍が上陸してくるかも知れないので、対空砲を垂平砲(砲台)に変えて海岸線の防備を強化した。 そのため毎日毎日、土木工事にも汗を流した。とにかく、ここが自分の墓場になるのだと思って一生懸命に全員力を入れていた。将校も下士官も兵隊も、そして台湾の志願兵も一致して、空腹にも耐えながら努力をしていた。
 その間、インドのデリー放送(短波)を傍受し、南方の島々も撤退(転進)作戦をしていることを知った。そして「広島、長崎に新型爆弾が炸裂(原子爆弾) 、被害が甚大」という。デマだ、日本は不滅だ、必ず勝つと信じていたが、終戦を迎えることになった。
 「八月十五日、重大放送あり。本部に集合」との連絡があった。服装を正して整列する。ラジオは雑音がガーガーとして聞き取れない。戦いが終わったようでもあり、また、励ましの御言葉のようでもある。誰言うとなく「負けた。戦争は終わった」と肩を落としすすり泣きが聞こえる。皆虚脱状態である。「デマだ」一瞬静かになり、またざわめく……。
 デリー放送が、盛んに「日本全面降伏、ポツダム条約受諾」を伝えているが、我々は信じられなかった。
 原住民も騒いでいるようであった。その時、私は台湾の志願兵に何と伝えればよいのか、彼等は日本を信じていたからである。自分が初年兵教育をし、「ここが死に場所だ、運命を共にしよう」と語り諭したのだからである。私は彼等に「本日戦争が終わった。終戦である。それぞれ故郷へ帰って復興再建のため若いエネルギーで頑張ってほしい。諸君の健闘を祈る」それだけの言葉がやっとであった。
 我々は田独鉱山の捕虜収容所に集中(集中営) 、台湾の志願兵は中国軍第十九師団に引き渡した。その後、如何になったか不明であり、逆賊、漢奸として処刑されるかもしれぬことも考え、泣きながら「日本へ連れて行ってください」と、嘆願する者が続出した。
 何とか納得はさせたが、その後の状況は不明である。
 私達は、武装解除され、毎日山林の伐採と道路の整備の重労働。配給食料も少なくなる。栄養失調者も出る。いつまでここにいるのか不安である。戦犯容疑者の首実験が行われ、二人連れ去られていった。次の番は誰であろうか、そんな不安な日も続いた。
 一九四六年四月に入り、米軍の輸送船リバティー型が入港した。「引揚船らしい。日本へ帰れるぞ」と皆の顔に明るさが蘇る。港で最後の首実験が行われた。現地人、中国軍、米軍の将校に顔を凝視されて帰らぬ者も出た。情けない敗戦の姿であった。船員は「リンゴの歌」を歌い、内地の状況を聞く。味噌汁と、たくあんが、何と美味であったか忘れられない。
 ああ、これでやっと日本へ帰れる。上海にいる家族はどうなっているのか? その後三ヵ月して全員無事引揚げ、再会、戦後生活が始まった。
 毎日、家族会議、闇屋、ブローカー、買い出し、引揚者と復員者の家族の日本での生活は、当分の間は生きていくのに精いっぱい……。
 一九八〇年十月、台湾から手紙。「覚えていますか私達」という書き出しで「学友会(戦友会)を致しますから、是非参加してください。皆が待っています」と、忘れていた志願兵からの便りであった。驚きと懐かしさで胸が高鳴り、地方新聞にも「三十六年ぶりの再会」として掲載された。
 私達関係者(当時の湯浅大尉、古屋中尉等関係者十人)と感動の再会。懐かしい青天白日旗の並んだ桃園空港へ。会場で再会の涙涙で、皆と抱き合う。よくぞ生きていたと、別れてからの苦労話、申し訳ないと謝るだけであった。
 彼等は、中国軍から解放され、民間人として故障した船を修理、十二日間かかって海南島より台湾に帰り、再建のため頑張ったと、胸を張って言っていた。大和魂で頑張ったと。それ以後、毎年十一月に慶生会を開くことに決定し、今年でもう二〇回にもなる。参加者も毎年少なくなっていくが、まだ七十人参加。日本からは、昨年は私一人になった。「最後の一兵まで来てください」と彼等は言う。私も命ある限り出席する覚悟である。
 生死を共にした友情は永遠であると信じる。日本へ来れば、必ず靖国神社と護国神社に参拝する。今まで私の家にも五人余り訪れた。嬉しい来訪者である。私も台湾へ行くと、必ず台中市宝覚寺にある「霊安故郷」に参る。これは日本のために散華した台湾出身者三万三千柱の慰霊碑だからである。私と台湾出身者とは、永遠の絆で結ばれている。残された人生を大切にして生きていきたいと念願している今日である。

                                原文は「元号」使用。


http://blogs.yahoo.co.jp/all_taiwan/45515567.html
2008/12/3
■戦友の絆、命の限り 元台湾志願兵と再会 学徒出陣65年、白山の湊さん
 太平洋戦争さなかの一九四三年十二月一日、学徒出陣が始まった。その直前、東京で挙行された壮行会で行進した湊健一さん(85)=白山市安田町、牛乳販売業=が、台湾での戦友会から帰国したと聞き、会いに行った。「戦争はまぎれもなくつらい記憶。それでも『戦争』と『戦友』は違うんだよ」。柔和な表情で六十五年前のあの日を湊さんは語り始めた。(北村太久磨)

【写真】戦友会懇親会で元台湾志願兵と再会を喜び合う湊さん(前列右端)=2008年11月26日、台湾・台中

 四三年十月二十一日、肌寒い小雨の降る明治神宮外苑で出陣学徒壮行会が行われた。東条英機首相らが見守る中、東京の大学で学ぶ湊さんは、学生服にゲートル(巻き脚絆(きゃはん))姿で行進した。「水たまりも何のその、足が自然に高く上がり、我を忘れた」。外苑スタンドは約二万五千人の出征学徒を見送る女子学生で埋まり、拍手の嵐が鳴り響いた。その日は湊さんが「この世に別れを告げた日」でもあった。
 徴兵猶予停止による学徒出陣は、湊さんが二十歳の誕生日を迎えた同年十二月一日、旧陸軍入隊から始まった。ふるさと松任に戻った湊さんは同月十日、旧海軍舞鶴海兵団に入団し、年が明けて中国・海南島警備隊に配属された。
 海南島では米軍爆撃機が連日飛来し、何人もが命を落とした。乗艦中に潜水艦から至近弾を浴びたこともあった。台湾人志願兵の教官を務めた湊さんは「海南島が自分の墓場と思っていた。運命を共にしようと皆で語り合った」という。多くの同期の桜が散ったように再び祖国の地を踏めるとは思っていなかった。
 「おい貴様、元気か」「おう、お前も」。十一月二十六日、湊さんは台北と台中で開かれた「海南島中之島会戦友会」の懇親会に出席した。遠慮なく、日本語で旧交を温める戦友たち。「海行かば」「艦船勤務」…。台湾人の元志願兵と肩を組んで軍歌を歌い、酒を酌み交わした。
 「主人は戦友会を本当に楽しみにしていました」。毎年、夫婦で参加していた元志願兵の姿はなく、今年は妻が遺影を抱いて来た。多い年には日台双方から約百人が集ったが、今冬は元志願兵は十一人、日本からは湊さん一人だった。
 戦後、生かされたことを亡き戦友に申し訳なく思いながら生きてきたという湊さん。今も朝五時に起き、牛乳を配達する。「雨や雪の降る朝も戦地に比べれば極楽や」と笑う。取材の最後に今の若者に言いたいことは何ですか? と聞いてみた。「自由にやりたいことができる時代に生まれた幸せを感じ、戦争中に多くの若者がなぜ死んでいったのかを学んでほしい」。胸に深く突き刺さる言葉だった。

 戦友、言葉は知っていても終戦後に生まれた私には縁の遠い言葉である。戦友と言う言葉を学友と変えてもピンとこない、やはり生死を共にした絆は特別なつながりが有るのでしょう。
お国の為と命を投げ出す気で日本の戦争に参加した人たち、この方たちは今現在の日本人よりも日本人だと思う。
 しかしこの方たちにとって戦争はまだ終わっていないのかもしれない。中国国民党軍が押し寄せ未だに不法占拠をしている国では・・・・・                     柯 宏龍 記



http://www.yomiuri.co.jp/local/ishikawa/feature/CO018292/20150812-OYTAT50006.html
『読売新聞』石川版 2015年8月9日 5時00分
■戦後70年 語り継ぐ  〈2〉台湾人志願兵と絆

   【写真】戦時中の写真を見ながら当時のことを語る湊さん(白山市安田町で)

 「どうか日本に連れて行ってほしい」。1945年9月、中国南方の海南島で台湾人志願兵に懇願され、元海軍少尉・湊健一さん(91)=白山市安田町=は、胸を締め付けられる思いだった。
 43年に海軍に入隊した湊さんは、戦争末期に海南島の防衛に派遣され、現地で募集した台湾人の新兵訓練を受け持った。「運命を共にしよう」と教えてきたが、終戦を迎え、中国軍に引き渡さざるをえなくなった。日本軍に参加したことで逆賊として扱われ、殺される可能性もあるため、志願兵の動揺は激しい。湊さんは、「それぞれの故郷に帰ったら復興に尽くそう」と諭すのが精いっぱいだった。

 父が貿易会社の副社長だったため幼少年期を中国・上海などで過ごし、41年に法政大に進学。43年10月、学生の徴兵猶予が停止され、明治神宮外苑競技場(東京)で行われた「出陣学徒壮行会」に参加した。「雨で髪をぬらした女子学生が拍手する中、我を忘れて行進した」と、戦時の高揚感に陶酔していた感覚を覚えている。
 すでに日本の旗色が悪くなっていることは感じていたが、「お国のために死ぬ。日本が負けるものか」と思い込んでいた。同年12月に海軍に入隊し、44年末か45年1月頃、海南島に派遣された。すでに日本に制海、制空権はなく、米軍機がやってきては機銃掃射を繰り返した。次第に補充兵の輸送も難しくなり、日本軍は現地の台湾人志願兵を募集し、約900人を採用した。
 教官としてジャングル戦などを指導した湊さんは、教育訓練を終えると、米軍の上陸に備えて地下壕ごうなどの陣地構築に明け暮れた。食料備蓄のため空腹に耐えながら、高射砲を水平砲に付け替え、戦車の通行を妨害するために穴を掘削。毎日のように米軍機の銃撃や爆撃を受けながら、命がけの土木工事だった。
 海岸防備は、米軍が上陸したら、真っ先に死ぬことになる。「ここが死に場所だ」と志願兵らと覚悟を決めていたが、結局、米軍の上陸はなく、終戦を迎えた。

 戦後長らく、志願兵らの行方は分からなかったが、頭の片隅には申し訳ない気持ちが残り続けていた。
 1980年10月、「覚えていますか私達」との書き出しで始まる1通の手紙が届いた。志願兵らが台湾で開く戦友会の招待状だった。志願兵の多くは戦後、中国軍から解放されて無事に台湾に戻っていたことが分かり、長年の胸のつかえが取れた気がした。
 以降は定期的に台湾に渡り、旧交を温めてきた。高齢となったため、ここ数年は会えていないが、「日本を信じ、自分を信じてくれた戦友。生死を共にしたからこそ、今は国を超えて平和への思いも共有できる」と語る。
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