三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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「砂糖黍農場の日々」

2016年07月16日 | 海南島史研究
 「(1939年)2月、 佛山を出発して、 海南島に向かいました。2月10日に海南島の西北部に上陸し、 夜の12時頃、 海口市の南四キロほどに位置している政治の中心地瓊山市 (*現在は省都の海口市に編入されている) に到達しました。 その間、 敵の抵抗はなく、 無血占領に成功して紀元節と合わせて二重の喜びに浸りました。
 1939年 8月、 大隊は海南島から広州に上陸し、 新会市に駐留することになりました」。

 「1940年9月、 輸送船に乗り、 北ベトナムのハイフォンに上陸しました。 直ちにドーソン砲台を目指して進撃し、 ハイフォンの背後の高地を占領しました。 占領後、 仏印軍との停戦交渉を成立させ、 無血入城に成功しました。 ハイフォンは椰子畑の中に外人住宅が立ち並び、 どこか西洋の街にいるような雰囲気でした。 街は整然としていて、 住民も平常と変わらぬ生活を続けておりました。 仏印無血進駐により、 援蒋ルート遮断の目的が達成されたため、 部隊は南寧の南方の欽県港に上陸して連隊の指揮下に入りました。11月15日、 部隊に撤退命令が下さ れました。
 輸送船に乗り、 苦しい戦いが続いて幾多の戦友が散っていった大陸を後にして、 再度海南島に転進しました。 海南島では、 瓊山市から定安市に通ずる交通の要衝である永興の町の警備に当たりました。 永興の町の警備を解かれて瓊山市に駐留し、 学校を宿舎として毎日訓練に明け暮れておりました。その際、 慰安婦の護送を担当したことがありました。 東海岸の部隊に送るのですが、 朝鮮人の若い女性十人ぐらいと引率の男をトラックに乗せて山道を護衛して行ったのです。 引率の男に聞いたところ、 募集して来たのだそうですが、 女性たちも覚悟して来たのか落ち着いた様子でした。 部隊では、 一般の女性を強姦することは固く禁じておりました。 しかし、 古兵の中には、 「女を徴発に行こう」 と言って遊びに行く者もおりました。 ただ、 私は行った ことがないので、 それが強姦を意味するのか、 私娼と遊ぶと言う意味なのかは判りま せん。 また、 第一線では戦闘がありますから慰安所はなく、 後方の部隊が駐屯しているようなところに開設されておりました。
 1941年の10月、 次期作戦準備のために、 海南島の瓊山から台湾の高雄に転進することになりました」。

http://www3.kumagaku.ac.jp/research/fa/bulletin/page/2
『海外事情研究』(熊本学園大学付属海外事情研究所所報)第41巻第1号(通巻82号)2013年9月発行
          柴公也「日本統治時代の台湾生活誌(Ⅴ)」
■「砂糖黍農場の日々」 馬本貞雄(1916年生。熊本農業卒)
 私は、 熊本市四方寄の農家の次男に生まれました。 熊本の農業学校を出て、 家で農作業を手伝っていましたが、 1936年5月に学校の推薦で、 台南の近くの塩水港製糖会社に就職しました。 外地手当てが付いて初任給は30円でしたから、 二十歳前後 の若者にしては、 結構良い給料でした。 ただし、 勤務地は、 東海岸の花蓮港から20キロほど南の寿庄にある花蓮港製糖所の砂糖黍農場でした。 農場は、 千五百町歩ほど もある広大なものでした。 農場には、 内地人の幹部社員のほかに、 台湾人の労働者がいて、 その労働者たちを、 中村、 村山、 増田という日本名の三人のアミ族の社員たちが監督していました。 私は、 社宅で自炊しながら、 毎日砂糖黍栽培の指導と品質検査に明け暮れておりました。 時々、 在郷軍人として軍事訓練にも参加していました。 台湾の東海岸にも、 大陸の戦争の足音が響き始めようとしていた頃のことでした。 1938年の5月に、 寿農場の事務所で、 庄役場の係員から召集令状を受け取り、 同僚五人と一緒に台北の歩兵第一連隊に入営しました。 月給は10円ぐらいだったと 思います。 当時、 台湾には志願兵制度がなかったので、 台湾人の兵隊はおりませんでした。 見送りは盛大で、 寿駅頭の日の丸の旗の波、 万歳の歓呼の声が今でも耳の奥に響いてきます。 ただ、 親兄弟の姿がなく、 これで娑婆ともお別れかと思うと、 涙が止め処なく流れてきました。
 連隊での訓練は厳しくて、 古兵には大分気合を入れられました。 食事と風呂に入ることぐらいしか楽しみはありませんでしたが、 入浴後、 戦友と身の上話に花を咲かせ たものでした。 たまの日曜日には、 戦友と外出したりして楽しい思い出もありました。
 三ヶ月ほど訓練を受けて中支派遣軍に編入され、9月5日に基隆から輸送船に乗って 上海経由で武漢に向かいました。 前年12月の南京攻略では、 便衣兵 (*軍服ではなく平服を着た兵隊であるが、 国際法では禁止されている)を大分殺害したとの噂でした。
 揚子江を遡って9月12日に九江に着き、 200キロほど離れた武漢三鎮を目指して、 秋雨の中の行軍を開始しました。
 行軍の途中の村は、 皆逃げていてもぬけの殻でした。 放し飼いの豚や鶏、 家鴨だけが村の中をうろついておりました。 米などの食料は兵站部隊が運んで来ていましたが、 おかずにするのが足りなかったので、 それらを徴発と称して捕まえ、 食料にしておりました。
 道中、 露営での食事は泥水で飯盒炊爨したものでした。 夜間の行軍の際には、 真っ暗で道が判らないので、 道を照らすために両側の空き家に火を放って灯りにしておりました。
 部隊は、 山を越え谷を越えて強行軍を続けまし た。 敵と遭遇した方が休憩できるから、 早く出てきてくれないかなと戦友と話しなが ら行軍しておりました。
 途中、 むごたらしく損壊された日本兵の遺体が打ち捨てられていました。 支那兵は日本兵を捕まえると虐殺して、 見せしめのために遺体を損壊するのです。 ある時、 捕虜が引き立てられて来て、 上官から刺殺を命じられたことがありました。 しかし、 捕虜を目の前にして、 どうしても刺殺することが出来ませんでした。 結局、 他の戦友が代わって刺殺しましたが、 何とも言えず後味の悪いものでした。 また、 捕虜を斬首する場面に出遭ったこともありますが、 とても正視出来ず、 思わず顔を背けてしまいました。 秋雨が降り続く泥道の強行軍では、 洗濯はおろか体も洗えません。 汗と泥水で軍服 はベトベトになり、 股擦れで両股から血が流れてきましたが、 遅れたら命がないので 必死に付いて行きました。
 行軍の途中、 私の小隊50人のうち、20人ぐらいが水に当たって病死しました。 何度か敵と激しい銃撃戦を繰り広げて、 15人ぐらいが戦死しました。 夜間には敵の射撃が一段と激しくなり、 チェコの機関銃弾がヒューンと頭をかすめていきました。 その時の私の本心は、 敵の弾が手か脚に当たってくれれば、 傷病兵として内地へ送還されるのではないかというものでした。 それで塹壕から手を挙げて見ましたが、 弾はなかなか当たらず、 結局、 怪我もせずに10月26日に武昌に到着しました。 途中、 敵の敗残兵が方々にいましたが、 既に戦闘意欲をなくしていたので戦いにはならず、 友達になりました。 ただ、 言葉が通じず、 話し掛けてもニコニコして いるだけでした。
 行軍の途中、 「文」 という16歳ぐらいの支那兵の少年が私たちの捕虜になりました。 何でも上海の中学に通っていた時、 兵隊に引っ張られたとのことでした。 分隊の当番兵代わりにして荷物を担がせたり、 駐留中は煮炊きや水汲みなどに使役したりしていました。 日本語は片言でしたが、 互いに気心が通じ合い、 弟のように可愛がっておりました。 二ヶ月ほど経って部隊が転進することになり、 武昌で涙を流して別れました。
 また、 日本軍に協力してくれた馬賊がおりました。 作戦中、 私たち初年兵が水汲みに行くと、 支那兵が堂々と水を汲んでいるのです。 古兵が、 「何だ、 貴様は」 と叱りつけましたが、 その後、 頭目が中隊長に面会を申し込んできたのです。 中隊長が丁重に応対していましたが、 頭目には数百名の部下がいて、 我が軍の作戦に側面から協力しているとのことでした。12月8日、悪戦苦闘の三ヶ月間を過ごした武昌を後にして輸送船で上海に向かいました。 一時上海に上陸し、 日本租界やガーデンブリッジを見学しました。 再び、 輸送船は上海から広州を目指して大海原を進んで行きました。 何日か経って、 広州の黄 埔港に上陸しましたが、 そのまま行軍して20キロほど離れた佛山市に到着し、 南支那派遣軍に編入されたのです。 翌年の2月、 佛山を出発して、 海南島に向かいました。2月10日に海南島の西北部に上陸し、 夜の12時頃、 海口市の南四キロほどに位置している政治の中心地瓊山市 (*現在は省都の海口市に編入されている) に到達しました。 その間、 敵の抵抗はなく、 無血占領に成功して紀元節と合わせて二重の喜びに浸りました。
 1939年 8月、 大隊は海南島から広州に上陸し、 新会市に駐留することになりました。 我が小隊は、 宿営地から5キロほど離れた大梅山の警備に当たりました。 ある日、 孫文の生誕の地の中山県に敵の討伐に出掛けたことがありました。 討伐を終えて、 帰途の行軍の一時休憩の時、 数人の支那服姿の老婦人に出会いました。 すると、 その中の一人が日本語で 「兵隊さん、 ご苦労様です」 と声を掛けてきたのです。 聞くと、 横浜の人で、 支那人と結婚して当地に住んでいるとのことでした。
 その後、 南寧に向かって進軍を開始し、 1940年1月24日、 南寧市に集結しました。 南寧で、 仏印から中国内陸に物資を運ぶ援蒋ルートを遮断することが目的だったのです。 ある時、 山頂から下山して、 麓の山陰に宿営したことがありました。 誰か先に寝ている人の間が暖かそうだったので、 その間に横になりました。 翌朝、 目を覚 ますと、 なんと敵の死体の間に寝ていたのでした。
 1940年9月、 輸送船に乗り、 北ベトナムのハイフォンに上陸しました。 直ちにドーソン砲台を目指して進撃し、 ハイフォンの背後の高地を占領しました。 占領後、 仏印軍との停戦交渉を成立させ、 無血入城に成功しました。 ハイフォンは椰子畑の中に外人住宅が立ち並び、 どこか西洋の街にいるような雰囲気でした。 街は整然としていて、 住民も平常と変わらぬ生活を続けておりました。 仏印無血進駐により、 援蒋ルート遮断の目的が達成されたため、 部隊は南寧の南方の欽県港に上陸して連隊の指揮下に入りました。11月15日、 部隊に撤退命令が下さ れました。
 輸送船に乗り、 苦しい戦いが続いて幾多の戦友が散っていった大陸を後にして、 再度海南島に転進しました。 海南島では、 瓊山市から定安市に通ずる交通の要衝である永興の町の警備に当たりました。 永興の町の警備を解かれて瓊山市に駐留し、 学校を宿舎として毎日訓練に明け暮れておりました。その際、 慰安婦の護送を担当したことがありました。 東海岸の部隊に送るのですが、 朝鮮人の若い女性十人ぐらいと引率の男をトラックに乗せて山道を護衛して行ったのです。 引率の男に聞いたところ、 募集して来たのだそうですが、 女性たちも覚悟して来たのか落ち着いた様子でした。 部隊では、 一般の女性を強姦することは固く禁じておりました。 しかし、 古兵の中には、 「女を徴発に行こう」 と言って遊びに行く者もおりました。 ただ、 私は行った ことがないので、 それが強姦を意味するのか、 私娼と遊ぶと言う意味なのかは判りま せん。 また、 第一線では戦闘がありますから慰安所はなく、 後方の部隊が駐屯しているようなところに開設されておりました。
 1941年の10月、 次期作戦準備のために、 海南島の瓊山から台湾の高雄に転進することになりました。 高雄市郊外の陸軍倉庫を兵舎として宿営しました。 既に大東亜戦争の開戦は必至の情勢で、 我が部隊はフィリピンに上陸することになっており、 上陸後の進出目標も設定されていたのです。
 11月下旬に高雄を出港し、 澎湖島の海 軍基地の馬公港で待機していましたが、 12月8日、 船中で日本海軍がハワイの米軍基地を攻撃したとの報せを受けました。
 12月17日、 ついに馬公を出港してフィリピ ンに向かったのです。 マニラから160キロほど北方に位置する リンガエン湾に上陸しました。 早速自転車と自動車を乗り継いでマニラに向かいました。 途中、 敵と激しく交戦しながら12月31日マニラに入城しました。 敵軍には米兵だけではなく、 現地人も参戦しておりました。
 1月5日、 バターン半島を攻略するために、 銀輪を連ねてマニラを出発しました。 途中自転車を放置し、 敵と激烈な銃撃戦を繰り広げながらバターン半島を占領し、 敵をコレヒドール島に退却させたのです。 我が軍は華々しい戦果を挙げたのです が、 大隊長を始め、 多くの戦友を失ってしまいました。
 1942年2月1日、 我が軍はジャワ攻略のために、 リンガエン湾から輸送船の金城丸に乗船しました。
 第三艦隊に護衛され、 数十隻の輸送船は、 一路ジャワを目指して南進を始めました。 熱帯の海を、 途中マカッサル海峡のホロ島に一時立ち寄り、 一ヶ月掛けてジャワ島の中部の北岸にあるクラガンに上陸しました。 攻略の目標は、 東部の中心都市スラバヤでした。 自動車部隊として、 砂糖黍畑の中のアスファルト舗装の道路を進みました。 途中、 住民たちは親指を立てて我が軍を歓迎してくれました。 ジャワの住民は、 フィリピンの住民とは違い日本軍に対して友好的で、 敵対することはありませんでした。 私たちが斥候に行くと、 住民はコーヒーを 出して接待してくれるのです。
 3月10日、 スラバヤが落城しましたが、 我が部隊は入城せず、 残敵掃蕩のためスラバヤ南方のマランに転進することになりました。 マランは、 高原に位置するオランダ人の避暑地でした。 我が部隊は市内にある学校 に宿営し、 治安の維持に乗り出しました。 住民たちは非常に親日的で、 友好を兼ねてジャワ語の勉強をしておりました。 ただ一度、 宿舎としていた学校にジャワ人の娼婦が入り込んできて、 兵隊とトラブルになったことがありました。
 4月になり、 今度は上陸地点のクラガンの近くのレンバンで市内の巡察に当たることになりました。 住民は平穏に暮らしており、 私たち幹部は、 時折郡役所に招かれて ジャワの踊りを見学したりしておりました。 毎日住民との交流に努め、 ジャワ語を習ったり日本語を教えたりしていたのです。
 8月中旬、 私たちに内地帰還の命令が出ました。 戦死した戦友たちを残し、 生死を共にした戦友と別れを惜しみ、 連隊本部のあるバタビア (*ジャカルタ) に移動しました。 連隊長より別れに際しての訓示を頂いて輸送船でシンガポールに向かい、 三週間ほど待機して市内を見学しておりました。 その際、 市内のホテルに朝鮮服を着た若い女が 人ほど宿泊していたので、 引率していた男に聞いたところ、 「ビルマの前線に行くと儲かるので朝鮮から連れて来た」 とのことでした。 女たちは無理矢理連れて来られたようには見えませんでしたから、 募集で来たのでしょう。 その後、 サイゴンを経由して台湾の高雄港に着いたのは、 9月の中旬でした。 検疫を済ませて湖口の演習場に十日ほど隔離され、 9月30日、 台北第一連隊補充隊に戻りました。 当時は、 日本軍が優勢の時でしたので、 国民も戦勝気分に湧き立っており、 歓迎の日の丸の旗の波に迎えられて営門を潜りました。
 1942年10月3日に除隊 し、 花蓮港寿庄出身の戦友四名と寿駅頭で会社の歓迎式に列席し、 私が代表として謝辞を述べ、 四年半の私の軍隊生活に幕を下ろしたのでした。
 花蓮港製糖会社に復職し、 寿農場の第三農場長に就任しました。 もう20代の半ば を過ぎていましたので、 両親の勧めに従って、 翌年の4月、 熊本の中川裁縫女学校を出た8歳下の妻と熊本で華燭の典を挙げました。
 妻を連れて台湾に戻る途中、 同じ船に乗り合わせた二十代とおぼしき五~六人の内地人の女性たちと知り合いになりました。 私たちが新婚だと判ると、 妻に向かって 「奥さんはいいですねえ、 私たちは ……」 と言葉を濁して、 涙顔になってしまいました。 不審に思って、 後で周りの人に聞いたところ、 何でも戦地の軍隊に行く慰安婦の人たちとのことでした。
 妻にとっては、 台湾は初めての外地でした。 最初は、 内地との違いに驚いていましたが、 直ぐ慣れて台湾での生活を楽しむようになりました。 製糖会社には社宅があって、 八畳と六畳に台所と風呂、 トイレが付いておりました。 水道はなく、 タンクから 水を引いていました。 ガスはありませんでしたが、 薪は台湾人が割って用意してくれました。 風呂は、 台湾人が当番で水を汲んでくれました。 ただ、 洗濯や食事は台湾人の手を借りずに自分たちで切り盛りしておりました。 米は購買所で買っていましたが、 水道代や燃料費は只でした。 生活面では、 熊本よりもずっと楽でした。 ただ、 社宅は事務所や購買所からは一キロほど離れていたので、 購買所に買い物に行く時は、 台湾人の押してくれる台車に乗って往復していました。 アミ族の監督の三人と台湾人の労働者の班長も社宅に入っておりました。 労働者たちも社宅でしたが、 トタン葺で板の間の粗末な社宅に住んでいました。 ただ、 台湾人や アミ族の家には風呂が付いていませんでした。 元々風呂に入る習慣がなく、 水やお湯で水浴びをしていたのです。
 台湾人やアミ族の生活は、 それほど豊かとは言えません が、 食べる物には不自由しておりませんでした。 アミ族の部下は、 前述したように中村、 村山、 増田と日本名に改姓名した三人がおりました。 三人は、 台湾人の労働者の監督をしていました。 アミ族は平地に住んで稲作をしており、 首狩もせず大体において温和な人たちでした。 私の隣家の増田さんは 社宅に住んでいましたが、 全く内地人と同じような生活をしていました。 ただ、 奥さんは着物ではなく、 伝統的な民族衣装を着ていました。 三人の子供がおりましたが、 皆優秀で内地人の学校の小学校に入り、 娘さんは内地人でも難しい花蓮港高等女学校に通っていました。 弟も、 花蓮港中学に合格しています。 ただ、 アミ族の人たちは、 終戦後中村さんだけを残して農場を辞め、 田舎に帰ってしまいました。
 1944年の9月に、 大型台風が襲来し、 台湾人やアミ族の家が大分壊されました。 それで、 会社の倉庫を開放して被災者たちが入居できるようにしたことがありました。 怪我人にはヨードチンキを塗って消毒してあげたのです。 また、 子供が生まれたばかりの台湾人の母親たちがいたので、 私の家に引き取って世話をしました。 その間、 私たちは子供たちを抱いて押入れに寝ていました。 私は、 台湾人やアミ族と接する時は、 常に思い遣りの心を持って接することをモットーにしていたのです。 終戦後、 その母親たちから 「台風の時は、 大変お世話になりました」 と、 食料の差し入れを受けました。 大東亜戦争の戦雲も急を告げ、 寿製糖工場も空襲されるようになり、 敵軍の本土上 陸も囁かれるようになりました。
 1944年10月、 私は花蓮港飛行大隊台湾特設工兵隊に再度召集されました。 月給は20円ぐらいでしたが、 他に会社から家の方に毎月50円ぐらい支給されておりました。 今度は軍曹に任じられ、 台湾人やアミ族の志願兵の第二小隊長を命じられました。 志願兵にも、 一ヶ月20円ぐらい支給されていました。
 花蓮港飛行場は、 特攻機の基地になっていたので、 敵の攻撃から特攻機を守るため、 特攻機を裏山に秘匿するのが任務でした。 特攻機の出撃の際には、 昼夜の別なく特攻機をトラックに載せて飛行場までの数キロの道を運んでおりました。 特攻機の出撃を見送る時は、 実に感無量でした。 平常は至極平穏で、 普段は作業場の見回りをし、 休養日には全員で魚獲りをしておりました。
 1945年の 8月、 私はマラリヤに罹って陸軍病院に入院していました。9日、 ソ連軍の参戦の報があって、 即刻退院を命じられました。15日、 国民学校の校長室 で終戦の詔勅を拝聴しました。 敗戦の報には残念でならず、 人目を憚ることなく声を上げて泣いてしまいました。 すると、 志願兵たちが、 「隊長、 心配しないで下さい。 日本は必ず復活しますから」 と慰めてくれたのです。 翌日、 大隊長の命令により隊を解散し、 私の二度目の御奉公も終りを告げました。 解散する時、 アミ族の志願兵にだ け小銃を渡して帰しました。 アミ族は日本人に親近感を持っていて、 もしもの時には 台湾人よりは頼りになると思ったからです。
 製糖会社には、 都合四年半ほどおりましたが、 台湾人やアミ族と喧嘩したことはあ りません。 口で叱ることはありましたが、 手を出したことはありません。 当時、 アミ族は日本人と先祖を同じくする人たちだと思っていましたが、 台湾人は日本人とは違って支那人の子孫だと思っていました。 一視同仁とは言っていましたが、 台湾人を同胞だとは思っていませんでした。 だからと言って、 馬鹿にしたり軽蔑したりしたことは 全くありませんでした。 花蓮港の街の中でも、 内地人と台湾人が喧嘩するようなことはありませんでした。 ただ、 終戦後、 台湾人の態度が大きくなったような感じは受けました。 花蓮港でも、 警察官が報復されたという噂を聞きました。 国民党の軍隊が花蓮港にも来ましたが、 それほど悪いことはしませんでした。 終戦により除隊し、 製糖会社に復職して終戦業務に従事していましたが、 台湾人が 我々に危害を加えたり、 仕返ししたりすることはありませんでした。 出来るなら、 ずっと台湾に住み続けたかったのですが、 翌年の4月、 台湾人の従業員たちの盛大な見送りを背にして、 住み慣れた寿農場から引き揚げました。 花蓮港から鹿児島港に上陸 して熊本に帰り、 日本での新しい生活を踏み出したのです。

               原文は「元号」使用。
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