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三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

耐村で 3

2013年05月03日 | 海南島史研究
 李文運さんは、手書きの『統耐村受日頑固残殺命如下』、『統計全耐村鰥夫寡婦婆如下』、『本人簡歴和家残酷情況』を見せてくれました。それらの記録について、李文運さんは、  
   “日本軍が撤退し、国民党に勝利し、共産党政権になったあと、学校の教師になり、そ
   のあと村長になった。そのころ村の各家を訪ねて調査し、これを書きはじめた”
と話しました。
 『統耐村受日頑固残殺命如下』には、耐村で1939年10月に、殺された人たちの名が、つぎのように記されていました。
   郭少慶 82歳、郭三良 56歳、盧炳章、郭明保、郭舎良、郭龍良、郭舎利、郭舎霊、
   郭舎時、郭振紹、郭明富、鍾良利、鍾良桂、鍾良牲、何際忠、鍾良咸、郭維宣、
   郭振華、何際春(共産党員、保長)、李文思(共産党員、書記)、郭少桂、鍾龍光、
   郭炳春、鍾妍六、鍾妍七、鍾妍双、鍾妍四、鍾妍五、鍾妍開、郭妍姑。

 趙志賢・王文卿・世東整理「日軍対耐村群衆的惨害」について、李文運さんは、
   “趙志賢さんはこの村に来て調査していった。うそは書いていないが、内容はとてもか
   んたん。37頁の郭少貴の話はほんとうのことだ。
    趙志賢さんの調査に協力した人は当時の村の村長で、字が読めず、書けなかった。
    あのとき趙志賢さんは、わたしのところには来なかった。わたしの家族3人が殺されさ
   れ、家が全焼したことが書かれていない。
    趙志賢さんは前から知っているが、いい人だった。10年ほど前に、癌で亡くなった”
と話しました。
 趙志賢さんは、紀州鉱山の真実を明らかにする会の会員がはじめて海南島を訪問した1998年6月に、石碌で会った人です。そのとき趙志賢さんは、昌江黎族自治県文史工作室の室長でした。お忙しい中、趙志賢さんは、自ら、石碌鉱山、「慰安所」跡、日本軍の兵営跡・望楼跡、「万人坑」跡、「万人坑」の近くの追悼碑などを案内してくれました。2000年春に再会したときに、これからの共同作業について話しあいました。しかし、2001年1月に訪ねたとき、2か月ほど前に亡くなられていました(紀州鉱山の真実を明らかにする会編『《写真集》日本の海南島侵略と抗日反日闘争』110頁をみてください)。
                                     キム チョンミ、斉藤日出治、佐藤正人