三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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光田村で 3

2013年05月09日 | 海南島史研究
 郭周権「光田村惨案」(中国人民政治協商会議海南省東方黎族自治県委員会文史組編『東方文史』第9輯〈1995年3月〉、政協昌江黎族自治県委員会文史工作室編『昌江文史』第6輯〈暴行与反暴行専輯。1997年1月〉に再録)に、1945年3月に、日本海軍横須賀第4特別陸戦隊の日本兵らが、昌江黎族自治県昌城郷光田村(当時は、大光郷光田村)を襲撃し、村人を惨殺したと書かれています。
 王永祥さんや鍾経倫さんの父の鍾懐徳さんが昌城の日本軍守備隊に連行されたのは、1945年3月のことであるかも知れません。
 王永祥さんが、このときのことを話しているとき、傍で鍾経倫さんは、王永祥さんといっしょに昌城に連行された人たちの名前を、書いてくれました。それは、王永祥さん、王永祥さんの兄、鍾喜由さん(監獄で殺された)、鍾懐徳さん(鍾経倫さんの4番目の父)、鍾懐君さん(鍾経倫さんのおじ)、鍾懐智さん(鍾経倫さんのおじ)、鍾起文さんでした。
 鍾経倫さんは、手書きの『光田村血泪史』と『泣歎血泡歌 鍾経倫家史』をみせてくれました。
 おだやかな表情で、鍾経倫さんは、
   “日本軍がこの村でおこなったことを、記録しておかなければならないと、ずっと思っ
   ていたが、書く時間がなかった。王下郷の病院で医者をしていたが、定年で退職した後
   にいっきに書いた。『光田村血泪史』を書き終わったのは、2000年8月15日で、そのあ
   と、同じ8月に、3日間で『泣歎血泡歌 鍾経倫家史』を書きあげた”
と話しました。
 『光田村血泪史』も『泣歎血泡歌 鍾経倫家史』も、1句が7文字の歌のかたちで書かれており、『光田村血泪史』は602行(4214字)、『泣歎血泡歌 鍾経倫家史』は509行(3563字)の長歌です。わたしたちが昨年11月2日に旦場村で聞かせてもらった『日寇惨殺旦場同胞 哀嘆長恨歌』は、7字490行の長歌でした(『日寇惨殺旦場同胞(哀嘆長恨歌)』については、このブログの2013年2月1日の「旦場村で 2」、4月17日の「旦場村の追悼碑 4」をみてください)。
 『光田村血泪史』のなかごろには、几帳面な文字で、つぎのように書かれてありました。
     惨無人道日本鬼  打人一身農鱗傷
     売牛用銀贖命回  傷痕痛起哀歌完
     四四村我又受難  牛羊和猪被槍光
     五十三間家焼了  余下不焼留四間
     焼家殺人殺断種  殺十二戸無種伝
     当時一村農哀了  遍地哀鴻泪満天
     全村耕牛被槍了  用人拉犂生産難
     幾天農無頓吃飽  人痩走路風吹倒

 趙志賢「闖虎穴 搗敵巣 ――光田抗日自衛隊奇襲昌城日軍据点」(『昌江文史』第6輯)には、
   “光田村自衛隊は、郭天元中隊長と郭文賢副中隊長の指揮のもとに、日本軍の馬部隊攻
   撃を計画した。まず、鐘明興隊員と張天栄隊員が昌城の日本軍拠点に潜入して日本軍の
   軍馬の情況を偵察し、日本軍の馬小屋に10匹あまりの軍馬がいることを知った。
    1943年1月初めの厳冬のときで、氷雨が降り、伸ばした手の先も見えないほどの暗い夜
   だった。光田村抗日自衛隊の郭文賢、鐘明興、鐘懐俊、鐘全松、文必照、郭天経、張天
   栄(後に敵に寝返った)の7人の戦士が武器をもって夜中の11時半に光田村を出発して、
   昌城の日本軍拠点に行って任務を果たした。深夜1時半、自衛隊員はすばやく鉄条網を切
   断し、いっせいに馬小屋に入って、尖った包丁で、各人が1匹づつ軍馬を処理した。わず
   か半時間で、軍馬7匹を殺し、7人はすみやかに日本軍の拠点を離れた”
と書かれています。
                                     キム チョンミ、斉藤日出治、佐藤正人


 海南省昌江黎族自治県地方志編纂委員会編『昌江県志』(新華出版社、1998年)には、郭天元さんについて、つぎのように記述されています。

郭天元 (1901—1944年)
  昌城乡光田村人。他出生贫苦家庭,幼年丧父,靠母抚养长大。小时入私塾,后因家贫而辍。1928年应征到昌城当兵。因仗义教训当时县长的儿子而被抓去坐牢3个月,1929年去海口当兵,次年,离营逃归。后经区委书记赵郑农等介绍到区里工作,1938年夏入党,不久任光田村党支部书记。
  1939年夏,被昌感县委派到府城民众抗日自卫团干部培训所学习军事。同年秋,担任大光乡抗日游击队中队长,到各村发动群众捐款买枪支。同年冬,郭带领战士配合昌江县抗日游击队第三支队在大风、耐村英勇阻击日军。
  1940年秋,大光乡抗日游击队并入琼崖抗日独立总队第四大队。当时,驻扎在昌化岭的国民党顽军,经常来搔乱大光乡民主政府。有一次反共土顽钟基率兵100多人向光田村进攻,天元与蒙开仁、李文思带领浪炳、旧县、耐村等民兵自卫队300多人伏击,敌军逃亡昌化岭。
  1942年夏,驻昌化城日军马队企图袭击大光乡。天元得知情报后立即连夜派人潜入昌城日敌据点,暗杀日军战马4匹,日军害怕,取消扫荡计划。
  1943年秋,在保护群众秋收的战斗中,不幸被日军逮捕,被绑架到昌化城伪维持会,日军和日伪维持会长张庆清对他软硬兼施,迫降不成,于1944年4月某日下午枪杀,时年43岁。
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