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三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会との「交流」13

2009年05月25日 | 日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会
 わたしたち(紀州鉱山の真実を明らかにする会会員)が、はじめて「朝鮮村」を訪れたのは、1998年6月でした。
 その後、なんどとなく「朝鮮村」やその近くの村でたくさんの人に、話を聞かせてもらいましたが、「朝鮮報国隊」についてまだまだわからないことが、たくさんあります。
 「朝鮮報国隊」に入れられ海南島に送られ、再び故郷に戻ることのできなかった人は、日本内務省文書、朝鮮総督府文書、旧日本軍文書(元海南警備府司令長官伍賀啓次郎の「帰還報告書」ほか)などによっても少なくても千数百人だと思われますが、その人たちの海南島での軌跡は、ほとんどわかっていません。
 わたしたちは、これまで、海南島で、「朝鮮村」とその周辺の村以外では、三亜市の回新村や六郷村や田独村、陵水黎族自治県の后石村や新村や英州、保亭黎族苗族自治県の南林、昌江黎族自治県の石碌、東方市の感恩などで、「朝鮮報国隊」を見たという人たちから話を聞かせてもらってきました。
 2008年春、わたしたちは、1998年いらい15回目の海南島「現地調査」のときに、「朝鮮報国隊」の軌跡について、東方市の八所村と三亜市の林家村で、新たな証言を聞かせてもらうことができました。
 朝鮮各地の刑務所から朝鮮人を海南島に強制連行した朝鮮総督府行刑官であった日本人刑務官が、一人だけ、「朝鮮報国隊」について述べた文章を残していますが、海南島で「朝鮮報国隊」の人びとを虐殺したと思われる旧日本兵は、わたしたちに証言を拒否し続けています。
 「朝鮮報国隊」に直接関係のなかった旧日本兵の一人、三亜飛行場を基地とする日本海軍第254航空隊に1943年12月からいた田川定男氏(1919年生)は、2000年10月に出版した『激流に生きる』(文芸社)のなかで、つぎのように述べています。
    “1944年11月から、三亜飛行場北方4、5キロの西森、さらに奥地の大恩崗、阜烟梅などに、兵舎・士官室などを建設し、発電所・工作機械を移設し、地下ケーブル敷設のための溝を掘り、飛行機誘導路を建設し、いくつもの掩体壕をつくった”、
    “われわれの電信室も掩体壕で被われることになり、多くの囚人が連れて来られ、数人の看守が見張って作業は進められた。”

 「多くの囚人」とは、「朝鮮報国隊」の人びとのことだと思われたので、わたしたちは、2005年4月に、田川定男氏に自宅で話を聞かせてもらいました。
 そのとき、田川定男氏は、自分が見た「囚人」は日本人でなかったと思われるが朝鮮人かどうかははっきりしない、着ていたのは青い服だったと話しました。
 ‘西森’、‘大恩崗’、‘阜烟梅’は、現在の海南島地図には出ていないので、当時の日本軍三亜飛行場の地図(防衛研究所図書館蔵)のコピーを示して位置を聞きましたが、確認できませんでした。
 わたしたちは、その後も、‘西森’、‘大恩崗’、‘阜烟梅’と思われる地域になんども行って見ましたが、はっきりしませんでした、
 2008年4月14日に、わたしたちは、西森’、‘大恩崗’、‘阜烟梅’の位置を知ろうとして、三亜市郊外の林家村(三亜市鳳凰鎮妙林管区林家村)を訪ねました。
 林家村は、六郷村や妙山村のすぐ近くの村です(六郷村については写真集『日本の海南島侵略と抗日反日闘争』74頁を、妙山村については同書27頁を見てください。妙山村のことは、2007年1月1日、2日、3日にこのブログにも書きこんであります)。
 旧日本軍文書『海南警備府戦時日誌』には、大恩峝に守備隊本部があったと書かれています。写真集『日本の海南島侵略と抗日反日闘争』4頁に掲載してある海南警備府の「陸上部隊兵力配備要図」に、妙山の西に大恩峝という地名が書かれています。

 林家村で、邢師全さん(農暦1925年7月21日生邢師全さん)とその弟の邢師光さん(農暦1928年5月26日生)から話を聞かせてもらうことができました。
 邢師全さんは、こう話しました。
    「日本軍が海南島に上陸したのは、農暦1938年12月26日だった。
     わたしの一家はいまの三亜の中心に近い三亜街に住んでいた。
     日本軍が来て、ここに飛行場をつくるので移れと言われて、むりやりここに移住させられた。日本軍は、しっかりした家には100元から200元ほど払ったが、わらの家の人にはなにも払わなかった。
     密林のようだったここに移ってきてとても苦労した。
     わたしは、日本軍にいろいろな仕事をさせられた。
     村の「保長」に日本軍で働けと言われ強制的に働かされた。
     田独鉄山で働かされたこともある。
     日本軍のトラックに乗せられて連れていかれた。
     1か月ほど働いた。草の家で寝た。
     おかずは少なかったが飯は食べほうだいだったので、腹をすかせることはあまりなかった。
     田独鉄山でインド人やイギリス人を見たことがある。インド人は監督をしていた。
     朝鮮人も見たことがある。朝鮮人が着ていた服の色は青かった。
     服の後ろに“朝鮮報国隊”と書いてあった。300人くらいいた。
     朝鮮人は荔枝溝にもいた。軍事工事をさせられていた。
     朝鮮人には自由がなかった。休憩がおわったとき日本人が笛をならして、すぐに集まらないと、殴り殺した。
     わたしは、飛行場でも働かされた。木を切った。道路工事をさせられたこともある。
     土を運んだり、地面を掘ったりした。
     妙山で日本軍が12人の人を竹でつないで首を切って殺して井戸に捨てるのを見たことがある。
     日本軍が負けたとき、アメリカ軍が飛行機でやってきた。
     三亜の人は、アメリカ軍を歓迎し、牛や鶏を贈った。国民党が来たのはその後だ。
     日本軍がいなくなって、とても幸せになった。
     しかし、日本軍が来るまえに住んでいた三亜街は飛行場になっていたので、戻ることはできなかった。
     回族の人たちは、飛行場の近くに戻った。
     日本軍はにくい」。

邢師光さんは、
    「朝鮮人を飛行場で見たことがある。
     朝鮮人は、飛行機を入れるところをつくっていた。
     着ていた服の色は青かった。麦わら帽子をかぶっていた。
     わたしも飛行場で働いたが、子どもだったので、1角しかもらえなかった。土を運んだ。
     日本兵は子どもをかわいがった」
と話しました。

 4月14日に邢師全さんと邢師光さんから話を聞かせてもらうとき、わたしたちは、こちらからは一言も「朝鮮報国隊」という言葉を話しませんでした。それなのに「朝鮮報国隊」のことを覚えていて証言するのは、「朝鮮報国隊」が邢師全さんにとって印象的なことだったからだと思いました。
 そのあと、三亜を離れてから、邢師全さんと邢師光さんが証言している映像を見ると、「朝鮮報国隊」という文字が服に書いてあったという証言をするとき、邢師全さんは軽く左手を右肩に置いていたことに気づきました。
 さらにくわしく話を聞かせてもらうために、瓊中黎族苗族自治県吊羅山郷、陵水黎族自治県本号鎮三十笠村、五指山市水満郷などを経由して、三亜市林家村を4月23日と24日に再訪しました。
 4月24日に、邢師全さんは、つぎのように話しました。
    「飛行場の工事で働かされているとき、朝鮮人を見た。
     荔枝溝でも見た。
     朝鮮人は、青い服を着ていた。
     腰を帯でしばっていたが、その帯の色も青かった。
     ズボンも青色だった。
     背中に、朝鮮報国隊と書いた白い布が縫い付けてあった。それで、朝鮮人だとわかった。
     インド人も見た。頭に布を巻いていた。
     日本軍は、広州人や汕頭人も働かせていた。
     病気になっても治療しなかった。たくさん死んだ。
     腹が痛いので働けないといっている朝鮮人を、日本兵が刺し殺したのを見たことがある。
     日本兵は、仕事が遅いとか、歩き方がのろいといって、働いている人たちを、いつも殴っていた」。