日本海軍佐世保第8特別陸戦隊に所属する日本軍部隊(万寧守備隊)が月塘村を襲い、多くの村人を殺傷したのは、1945年5月2日(農暦3月21日)でした。
その20日前、1945年4月12日(農暦3月1日)に、同じ佐世保第8特別陸戦隊に所属する日本軍部隊(中原守備隊、橋園守備隊、陽江守備隊)は、瓊海市九曲江郷(当時は、楽会県互助郷)の坡村、長仙村、三古村、南橋村、雅昌村、佳文村、風嶺村、吉嶺村、官園村など9か村を襲撃し、おおくの村民を殺害しました。
幸存者の一人、曹靖さんが長い間かかってすべての村人からの聞きとりをくりかえして書き、2005年8月に出した『日本法西斯“三光”政策罪行録 回顧長仙聯村“三・一”血泪史』には、殺された村人384人の名が、記されています。
九曲江郷で、日本軍が大虐殺をおこなったのは、日本敗戦の4か月まえでした。
日本軍が9か村の村人を集めて殺害した燕嶺坡に、1947年につくられた“三・一”被難公塚の墓碑には、「楽会県互助郷坡村長仙三古南橋雅昌佳文風嶺吉嶺官園等村抗戦死難民衆公墓」と刻まれています。
2008年4月3日午後、万寧にいたわたしに曹靖さんから、農暦3月1日に、“三・一”被難公塚に、例年のことだが村人が集まって掃墓と祭拝をするので、参加しないか、という電話がありました。わたしは参加させてもらうことにしました。
ことしの農暦3月1日は4月6日でした。
きょう朝8時半すぎに燕嶺坡に行くと、すでに300人あまりの村人が集まっていました。
10時に追悼集会が始まり、黙祷のあと、幸存者の曹家成さん、曹徳炳さん、曹靖さんが話しました。そのあと、どうしても話せと言われたので、わたしが話しました。日本語を使いたくなかったので、きわめてつたない漢語で話し、同行した林彩虹さんに海南語で通訳してもらいました。その要旨は、つぎのとおりです。漢語なので、おおまかなことしか話せませんでした。
「わたしが、はじめてここに来たのは、2002年10月でした。きょう追悼集会に参加させていただいて、たいへんありがたく思っています。1945年のこの日、日本軍はここでとても残忍な犯罪行為をおこないました。このことに関して、現在の日本政府に責任があります。わたしは、日本政府がおおくの村人を殺害した日本兵を探し出し、処罰しなければならないと考えています。日本政府は犠牲者に公開謝罪しなければなりません。日本政府は賠償しなければなりません。昨年8月5日、日本人、朝鮮人、海南人が、日本で海南島近現代史研究会を創立しました。この研究会は、主として、日本が海南島を占領していた時期の侵略犯罪行為を明らかにすることを目的にしています。わたしは、みなさんのたすけをかりて、これから、みなさんとともに、歴史の真実を明らかにし記録していきたいと思っています」。
そのあと、祭壇に供えられた、飯、肉などが分けられました。食事の終わるころ、大型の爆竹が10数個、連続して鳴らされました。
12時前に散会。
わたしは、林彩虹さんといっしょに長仙村に行き、曹家成さん(72歳)の自宅で話を聞かせてもらいました。
曹家成さんの父は、1945年2月ころ、日本兵に殴られ、それがもとで死んだそうです。
1時間あまり話を聞かせてもらったあと、曹家成さんに、1945年農暦3月1日に一家全員が殺され、それ以後は廃墟になっている場所に案内してもらいました。
そのあと、佳文村に行き、馮運輝さん(1936年生)、陳国煌さん(1930年生)、黄明英さん(85歳)から話を聞かせてもらいました。
佐藤正人
その20日前、1945年4月12日(農暦3月1日)に、同じ佐世保第8特別陸戦隊に所属する日本軍部隊(中原守備隊、橋園守備隊、陽江守備隊)は、瓊海市九曲江郷(当時は、楽会県互助郷)の坡村、長仙村、三古村、南橋村、雅昌村、佳文村、風嶺村、吉嶺村、官園村など9か村を襲撃し、おおくの村民を殺害しました。
幸存者の一人、曹靖さんが長い間かかってすべての村人からの聞きとりをくりかえして書き、2005年8月に出した『日本法西斯“三光”政策罪行録 回顧長仙聯村“三・一”血泪史』には、殺された村人384人の名が、記されています。
九曲江郷で、日本軍が大虐殺をおこなったのは、日本敗戦の4か月まえでした。
日本軍が9か村の村人を集めて殺害した燕嶺坡に、1947年につくられた“三・一”被難公塚の墓碑には、「楽会県互助郷坡村長仙三古南橋雅昌佳文風嶺吉嶺官園等村抗戦死難民衆公墓」と刻まれています。
2008年4月3日午後、万寧にいたわたしに曹靖さんから、農暦3月1日に、“三・一”被難公塚に、例年のことだが村人が集まって掃墓と祭拝をするので、参加しないか、という電話がありました。わたしは参加させてもらうことにしました。
ことしの農暦3月1日は4月6日でした。
きょう朝8時半すぎに燕嶺坡に行くと、すでに300人あまりの村人が集まっていました。
10時に追悼集会が始まり、黙祷のあと、幸存者の曹家成さん、曹徳炳さん、曹靖さんが話しました。そのあと、どうしても話せと言われたので、わたしが話しました。日本語を使いたくなかったので、きわめてつたない漢語で話し、同行した林彩虹さんに海南語で通訳してもらいました。その要旨は、つぎのとおりです。漢語なので、おおまかなことしか話せませんでした。
「わたしが、はじめてここに来たのは、2002年10月でした。きょう追悼集会に参加させていただいて、たいへんありがたく思っています。1945年のこの日、日本軍はここでとても残忍な犯罪行為をおこないました。このことに関して、現在の日本政府に責任があります。わたしは、日本政府がおおくの村人を殺害した日本兵を探し出し、処罰しなければならないと考えています。日本政府は犠牲者に公開謝罪しなければなりません。日本政府は賠償しなければなりません。昨年8月5日、日本人、朝鮮人、海南人が、日本で海南島近現代史研究会を創立しました。この研究会は、主として、日本が海南島を占領していた時期の侵略犯罪行為を明らかにすることを目的にしています。わたしは、みなさんのたすけをかりて、これから、みなさんとともに、歴史の真実を明らかにし記録していきたいと思っています」。
そのあと、祭壇に供えられた、飯、肉などが分けられました。食事の終わるころ、大型の爆竹が10数個、連続して鳴らされました。
12時前に散会。
わたしは、林彩虹さんといっしょに長仙村に行き、曹家成さん(72歳)の自宅で話を聞かせてもらいました。
曹家成さんの父は、1945年2月ころ、日本兵に殴られ、それがもとで死んだそうです。
1時間あまり話を聞かせてもらったあと、曹家成さんに、1945年農暦3月1日に一家全員が殺され、それ以後は廃墟になっている場所に案内してもらいました。
そのあと、佳文村に行き、馮運輝さん(1936年生)、陳国煌さん(1930年生)、黄明英さん(85歳)から話を聞かせてもらいました。
佐藤正人