三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

2008年農暦3月21日

2008年04月26日 | 海南島
 1945年農暦3月21日(5月2日)朝、日本海軍佐世保第8特別陸戦隊万寧守備隊の日本兵は、月塘村を襲い、多くの村人を殺傷しました。
 その63年後のきょう、2008年農暦3月21日(4月26日)、月塘村で、月塘三・廿一惨案紀念碑掲碑儀式がおこなわれました。
 その儀式に、海南島近現代史研究会のメンバーが、海南島から3人、日本から3人参加しました。
 200人ちかい村人と月塘村の益豊小学校の生徒150人ほどが見まもるなかで、9時半に赤い布がとり去られ、白い大理石に刻まれた「三廿一紀念碑」という赤い文字が現れました。大きな爆竹が鳴らされました。
 万城鎮益豊小学校全体師生と万城鎮月塘村村民委員会と海南島近現代史研究会が献花しました。
 全員が黙祷したあと、紀念碑籌建主任の朱学基さんが碑文を読みあげました。追悼碑台座の正面には「月塘村“三・廿一”惨案碑志」が、右側側面には「月塘村(三・廿一)惨案遇難者名単」が、赤い文字で刻まれていました。「名単」に名が刻まれている人は190人でした。
 月塘村委員会主任朱進平さんと万寧鎮副鎮長のあいさつのあと、受害者和遇難者家属代表の朱瓊波さん(1948年生)が話し、万寧市委員会史誌辧公室主任が話ました。
 そのあと、海南島近現代史研究会の佐藤正人が漢語であいさつし、それを林彩虹さんが海南語で通訳してくれました。
 佐藤正人は、つぎのように話しました。
    「わたしが、はじめて月塘村に来たのは、昨年2007年1月17日でした。
     そのとき、朱学平さんから話しを聞かせてもらったあと、朱学基さんに会いました。
     朱学基さんは、そのとき、犠牲者を追悼する碑を建てる準備をしていると話しました。
     わたしたちは、昨年5月24日に、月塘村追悼碑建設についての話し合いに参加させても
    らい、そこで朱振華さんから、要求日本国政府賠償請願書を見せてもらいました。
     昨年8月5日に、日本大阪で、朝鮮人、日本人、海南人が、日本で海南島近現代史研究
    会を創立しました。この研究会は、主として、日本が海南島を占領していた時期の侵略
    犯罪行為を明らかにすることを目的にしています。
     1945年のきょう、日本軍はここでとても残忍な犯罪行為をおこないました。
     この追悼碑には、犠牲者すべての名が刻まれています。
     この追悼碑は、犠牲者を追悼する碑であるとともに、日本の侵略犯罪を証明する碑だと
    思います。
     日本政府は犠牲者に公開謝罪しなければなりません。
     日本政府は、おおくの村人を殺害した日本兵を探し出し、処罰しなければなりません。
     日本政府は賠償しなければなりません。
     追悼集会に参加させていただいて、たいへんありがたく思っています。
     きょうは、みなさんとの共同の民衆運動の新しい出発の日だとわたしは思います。
     みなさんとともに、みなさんと共に、歴史の真実を明らかにしていくことを願っています」。

 つづいて、海南大学の金山さん(海南島近現代史研究会会員。朝鮮族)が、この碑が民衆のちからで建立され犠牲者全員の名が刻まれている意味が大きいと話したあと、漢語に翻訳したキム チョンミさんのあいさつを朗読しました。キム チョンミさんは、前夜つぎのような文章を海南島にいる海南島近現代史研究会のメンバーに送信していました。
     「2008年農暦3月21日、この日に月塘村の人たちといっしょに、追悼碑除幕式の場にい
    ないことを、とても残念に思います。
     わたしは、日本に生まれ育ちましたが、朝鮮人です。
     朝鮮は、1910年に日本の植民地にされました。その前後を通じて、日本は、朝鮮の土
    地や資源を奪い、朝鮮人を過酷な労働に従事させました。朝鮮が1945年に解放されるま
    で、多くの朝鮮人が、日本の植民地政策によって犠牲になり、また抗日闘争の過程で、
    命を落としました。
     朝鮮人の中には、海南島に強制連行され、過酷な労働で亡くなった人たちがおおぜい
    います。幸いに生き残り朝鮮の故郷に戻ることができた人から、食べ物がなくて苦しか
    ったとき、海南島の人たちから芋や水をもらい助けられたと、聞きました。
     月塘村で日本軍に殺害された人たちは、わたしには、同じく日本軍に殺された朝鮮人の
    同胞の姿と重なります。
     その月塘村での追悼碑建立にわずかでも協力できたことを、感謝します。
     この追悼碑が、わたしたちが、日本の侵略犯罪の犠牲になった人たちをいつまでも忘れ
    ず、日本人にみずからの侵略犯罪を忘れさせないものとなることを、願っています。
         2008年4月25日   和歌山県海南市から」。

 キム チョンミさんは、きょうの除幕式に参加しようとして、4月23日に大阪を発ち、海南島の三亜国際空港に午後8時15分に着きましたが、これまでは三亜空港で簡単に取得できたビザをとることができず、三亜市内で待っている海南島近現代史研究会のなかまに電話することも許されないまま、1時間あまりのちに強制的に退去させられていました。

 金山さんがキム チョンミさんのあいさつを漢語で読みあげ、それを林彩虹さんが海南語に通訳しました。
 そして、10時20分に除幕式がおわりました。

 きょう昼過ぎ、月塘村に雨が降り始めました。63年まえのこの日にも、雨が降ったそうです。
 午後、わたしたちは、籌建月塘“三・廿一”惨案紀念碑領導小組の人たちと、追悼碑建立後の運動について話し合いました。

 1994年に月塘村全村民は、日本政府にたいして、
    1、われわれ月塘村村民に対し、国際社会に公開で謝罪せよ。
    2、受傷して生き残った幸存者と犠牲者家族に賠償せよ。
    3、月塘村に死者を追悼する記念館を建設し、追悼式をおこなえ。
    4、焼失した家屋、強奪した財産を弁償せよ。
と要求していました。

 日本政府に、この要求に、どうしたら具体的にこたえさせることができるかが、話し合いの中心課題でした。
                                      佐藤正人
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