三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

二人の影と私と-三重県木本での朝鮮人虐殺-その3(2002・4)

2006年12月16日 | 木本事件
《私の世界と二人の影》
 相度さんは一八九六年、朝鮮半島の東南の地、洛東江が海に注ぐ河口近くの村で生まれました。相度さんは幼いときから農業を営んでいたのですが、やがて農業では生計がたてられなくなってしまい、妻と共に日本に渡ることになります。その過程には日本による植民地支配があります。相度さんは大阪、京都、滋賀、三重などの工事現場で働き、一九二五年、妻と幼い三人の子どもたちとともに木本へとやって来ました。
 相度さんが働いた木本トンネルの工事には、多いときで二〇〇人の朝鮮人労働者が働いていました。相度さんよりも少し若い李基允さんもトンネル工事現場で働き、妻とともに木本で暮らしていました。
 木本は海と三方を山に囲まれた地形のため、船がつかえない時期には、交通に不便な峠道を使うしかなく、トンネルを作ることを木本の産業、生活にとって、重要なものでした。「大日本帝国」による朝鮮半島の植民地支配がおこなわれたとき、相度さんは農業を続けられなくなり、故郷をあとにし、日本の木本という一地域の開発のための安い一労働力として、トンネル工事に従事することとなったのです。
 一九二六年の正月、映画館に入ろうとした朝鮮人と日本人のあいだで喧嘩となり、朝鮮人が日本刀で切られ、重傷を負うという事件が起こったことに端を発し、翌日の一月三日夕刻頃、日本人の地域住民のあいだで、朝鮮人が襲撃に来るというデマが流れはじめ、木本町長は銃砲所持者に参集をもとめ、消防組、在郷軍人会が猟銃、日本刀、銃剣、とび口などで武装し、朝鮮人労働者とその家族が暮らしていた飯場を襲撃するという事態にいたりました。薄暗くなった木本の町には、火の見やぐらの警鐘がうち鳴らされ、「やれー」という気勢があがっていたといいます。
 武装した消防組、在郷軍人会など人々による襲撃にあい、家も家財道具も壊されてしまった朝鮮人の労働者とその家族は、木本トンネルに避難し、なおも追いかけ、発砲する日本人に対して工事用のダイナマイトで反撃しました。
 日本人に対し先頭にたって反撃した李基允さんは日本人に包囲され、とび口を突き立てられ、棍棒でなぐられて殺されてしまったのです。また、その後、現場にいなかったが、銃声、ダイナマイトの音に気づいた相度さんは、止めに入ろうとしたところを、日本人につかまり、殺されてしまいました。
 消防組、在郷軍人会の人々は、夜になってもトンネルの山側に逃れた朝鮮人への追撃をやめませんでした。その後数日、夜は、山あいの小さな集落でも電気が消され、住民が在郷軍人会による「追跡」に「協力」していました。
 事件後、木本町の朝鮮人は、警察の手によって木本町を追放されました。追放前、家を、家財道具を壊され、木本町役場に収容された相度さんと李基允さんの妻が持っていた財産は、二人合わせてわずかに三円だったと当時の新聞は伝えています。
久保雅和
(立命評論 №106 2002/4発行)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする