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三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

海南岛近现代史研究会 第25次定期研究会

2020年01月17日 | 海南島近現代史研究会
■海南岛近现代史研究会 第25次定期研究会■
  1939年2月,日本政府・日本军队开始侵略海南岛,几个月后,日本企业入侵了海南岛。
  在开始侵略海南岛的70年前,1869年日本新政府将阿伊努莫西里沦为自己的殖民地,3年后的1872年又将琉球王国沦为殖民地。其后,国民国家日本在亚洲太平洋各地,争夺土地和海洋,破坏他们的故乡,剥夺人命,掠夺资源,破坏文化,剥夺语言,强行带走民众,将民众沦为性奴隶。
  日本政府并没有正确详细地认识自己国家犯罪的历史,没有对侵略犯罪道歉,没有公开表明应承担的责任,没有做任何的赔偿。
  现在,在历史认识相关的报道方面,让人觉得是日本和韩国这两个国家民众之间的对立宣传报道,由帮助日本政府,日本企业的隐藏侵略犯罪的日本媒体在推进。
  隐藏和否认在亚洲各地将女性作为日本陆海军,日本政府组织的军队性奴隶的历史事实是日本政府,日本的民族主义者。强行将朝鲜,中国的民众带走,强制他们劳动的是日本政府,日本企业。
  国民国家日本的侵略犯罪相关的各种问题,不是国家之间的问题,而是社会正义的问题,特别是具备历史责任感的国家的国民克服民族主义需面临的问题。
  国民国家日本的历史是侵略其他地域其他国家的历史,其国家的构造至今没有改变。
  我们认为客观的历史认识如果不与社会变革联系在一起就不能成立,社会变革的力量因客观的历史认识而强化。
  我们希望大家共同来讨论作为社会变革的实践一环的历史认识。

    时间:2020年2月8日(星期六)13时10分~17时(12时30分开场)
    地点:国劳大阪会馆 1楼大厅   
               从JR天满站出口往右拐(樱之宫站方向)200米 
    参加费,资料费:500日元(会员免费)

主题: 历史认识和社会变革
■报告 日本在亚洲太平洋的国家犯罪,亚洲太平洋民众的抗日反日斗争   佐藤正人 
■报告 考察关于文化遗产返还的问题                  五十嵐彰
■报告 如何向孩子们讲述被强行带走被强迫劳动的事实          郑初美
■报告 如何向孩子们讲述军队性奴隶的事实               皇甫康子
■报告 在殖民地朝鲜的历史认识与在分断国家朝鲜的社会变革       金静美
■讨论 不承认侵略其他地域其他国家的国家犯罪,不承认将其他地域其他国家沦为殖民地的国家犯罪,我们希望解析这样的日本国家的政治・社会・文化・经济状况,探究民众的历史认识方法,希望通过讨论能阐明一丝社会变革的具体里程。
■关于2020年3月进行的海南岛近现代史第21次(第34次)海南岛「现地调查」
               海南岛近现代史研究会  http://www.hainanshi.org/

海南島近現代史研究会第25回定例研究会

2020年01月05日 | 海南島近現代史研究会
 2月8日に、海南島近現代史研究会の25回目の定例研究会を開きます。
 主題は、「歴史認識と社会変革」です。
 みなさんの参加を待っています。
                    海南島近現代史研究会

■海南島近現代史研究会第25回定例研究会■
 日本政府・日本軍が海南島侵略を開始した1939年2月の数か月後に日本企業は海南島に侵入しました。
 海南島侵略開始70年前、1869年に日本新政府は、アイヌモシリを領土化し、その3年後、1872年に琉球王国を領土化しました。その後、国民国家日本は、アジア太平洋の各地で、大地と海を奪い、故郷を破壊し、命を奪い、資源を奪い、文化を破壊し、コトバを奪い、民衆を強制連行し、民衆を性奴隷にしました。
 日本政府は、その国家犯罪の歴史を正確・詳細に認識しようとせず、侵略犯罪を謝罪しようとせず、責任の所在を明らかにしようとせず、まともに賠償しようとしていません。
 いま、歴史認識にかかわって、あたかも日本と韓国の民衆が対立しているかのような宣伝が、日本政府、日本企業の侵略犯罪隠蔽に協力している日本のマスメディアなどによって進められています。
 アジア各地で女性を日本陸海軍、日本政府が組織的に“軍隊性奴隷”とした歴史的事実を隠蔽・否認しているのは、日本政府、日本ナショナリストです。朝鮮や中国から住民を強制連行し強制労働させたのは、日本政府、日本企業でした。
 国民国家日本の侵略犯罪にかかわる諸問題は、国家間の問題ではなく社会正義の問題であり、とくに歴史的責任を有する国家の国民がナショナリズムを克服することが問われている問題です。
 国民国家日本の歴史は他地域他国侵略の歴史であり、その国家の構造は、現在も変わっていません。
 客観的な歴史認識は社会変革とむすびつかなければ成り立たず、社会変革の力は客観的な歴史認識によって強化されるのだと思います。
 社会変革の実践としての歴史認識について、ともに話しあいたいと思います。

と き:2020年2月8日(土)13時10分~17時(開場12時30分)
ところ:国労大阪会館 1階ホール   
      JR天満駅改札口を出て右へ(桜ノ宮駅方向へ)200メートル           
参加費:500円(会員は無料です)

主題:歴史認識と社会変革
■報告 アジア太平洋における日本の国家犯罪・アジア太平洋民衆の
   抗日反日闘争                     佐藤正人
■報告 文化財返還問題について考える
                              五十嵐彰                                      
■報告 強制連行・強制労働の事実を子どもたちにどう伝えるか 
                              鄭初美
■報告 軍隊性奴隷の事実を子どもたちにどう伝えるか  
                              皇甫康子
■報告 植民地朝鮮における歴史認識と分断国家朝鮮における社会変革    
                              金靜美                      
■討論 他地域他国を侵略した国家犯罪・他地域他国を植民地化した国家犯罪
   を認識しようとしない日本国家の政治・社会・文化・経済状況を解析し、
   民衆の歴史認識の方法を探求し、社会変革の具体的な道すじを、討論の
   なかですこしでも明らかにしていきたいと思います。
■2020年3月の海南島近現代史研究会の21回目(34回目)の海南島「現地調査」
について
          海南島近現代史研究会 http://www.hainanshi.org/

ピースおおさか改悪再開館に対する裁判 勝訴確定

2019年08月28日 | 海南島近現代史研究会
 以下は、2019年8月24日に開催した海南島近現代史研究会第13回総会・第24回定例研究会での竹本昇の報告(ピースおおさか改悪再開館に対する裁判 勝訴確定)の要旨です。
                     海南島近現代史研究会

■ピースおおさか改悪再開館に対する裁判 勝訴確定■
 ピースおおさか改悪再開館に対する裁判は、2019年5月24日に最高裁が上告を棄却し、大阪高裁の判決が確定しました。
 大阪高裁の判決は、大阪府と大阪市がピースおおさか改悪再開館についての情報を原告に非公開にしたことを違法と認定し、大阪府と大阪市に賠償を命じるものでした。
 ピースおおさかは、1991年9月に「1945年8月15日に至る15年戦争において、戦場となった中国をはじめアジア・太平洋地域の人々、また植民地下の朝鮮・台湾の人々にも多大な危害を与えたことを、私たちは忘れません」を設置理念として、大阪城内の一角に開設されました。しかし、2011年に大阪府・市議会で第1党となった大阪維新の会の府議らが議会でピースおおさかの展示物にたいして「偏向した展示物が多すぎる」と追及し、松井一郎前知事(現大阪市長)と橋下徹大阪市長(当時)が、植民地支配・侵略戦争の実相を隠すために展示内容の企画に不当な干渉をして、加害の展示物を一切撤去させてしまいました。
 私は、ピースおおさか改悪再開館について情報の公開請求を(公財)ピースおおさか・大阪府・大阪市に行いましたが公開を拒否されました。市民に情報を公開せず、戦争の加害の事実を示す展示物を撤去したことを容認できませんでしたので、(公財)ピースおおさか・大阪府・大阪市の3者を相手にしてそれぞれ、損害賠償請求の裁判を起こしました。その結果、(公財)ピースおおさかの裁判は敗訴したものの、大阪府・大阪市の裁判は勝訴しました。その内容は次のとおりです。

◆1 改悪再開館と裁判の経過
(一)裁判に至るまで
  2013年4月 ピースおおさかが「リニューアル構想」を発表
         (「リニューアル構想」発表以後、個人・市民団体から意見がピースおおさかに寄せられ、93件中72件が「設置理念の尊重」、「加害展示撤去に反対」の意見でした。)
  2015年1月 原告が、(公財)ピースおおさか・大阪府・大阪市に対して、改悪再開館について文書の情報公開を請求
       2月 (公財)ピースおおさか・大阪府・大阪市・が、原告に対して情報公開を拒否
       2月~3月 原告が、(公財)ピースおおさか・大阪府・大阪市・の情報公開審査会に対する異議申し立てを行ったが、3者は情報公開審査会に諮問しなかった。 
       4月 戦争加害を示す写真パネルを撤去しただけではなく、広島・長崎の被爆など戦争被害を示す写真パネルなどを撤去、さらに、今までの空襲体験者の絵画は通路などに移されて10数点のみの展示となったピースおおさかとして改悪再開館された。
(二)裁判の経過
 (1)(公財)ピースおおさかを訴えた裁判
  2015年8月 4日  訴訟提起(大阪地裁)
  2017年6月15日  判決(原告、敗訴)
       6月26日  原告、控訴(大阪高裁)
  2018年2月16日  判決(控訴人、敗訴)
       3月 1日  (控訴人、上告)
  2019年5月24日  最高裁上告棄却決定(大阪高裁の判決が確定
 (2)大阪府を訴えた裁判
  2015年8月11日  訴訟提起(大阪地裁)
  2016年12月8日  判決(原告敗訴・大阪府の異議申立てについての条例違反のみ認める)
       12月8日  原告、即日控訴(大阪高裁)
  2017年11月30日 判決(控訴人、勝訴)
       12月14日 大阪府、上告
  2019年5月24日  最高裁上告棄却決定(大阪高裁の判決が確定)
 (3)大阪市を訴えた裁判
  2015年8月14日  訴訟提起(大阪地裁)
  2016年12月8日  判決(原告敗訴・大阪市の異議申立てについての条例違反のみ認める)
       12月8日  原告、即日控訴(大阪高裁)
  2017年9月1日   判決(控訴人、勝訴)
       9月14日  大阪市、上告
  2019年5月24日  最高裁上告棄却決定(大阪高裁の判決が確定)

◆2、裁判で明らかになったこと
(一)公開しなかった理由は市民の意見を無視するため
 情報を非公開にした理由は、市民の要望を無視したことが明らかになることを隠すためであったことが次の元ピースおおさか館長の証言(相手方から出された陳述書)で明らかになりました。
 (大阪高裁口頭弁論 2017年6月20日付け被控訴人提出の書証乙第48号陳述書(岡田重信元ピースおおさか館長)
「大阪府知事が、リニューアルオープン前に、展示の詳細な内容にかかわる当該資料について情報公開に応じていれば、各種団体の意見、要望、提案がリニューアル後の展示内容にほとんど反映されていないことが明らかになります。」
(二)松井一郎前大阪府知事と橋下徹元大阪市長の不当な干渉について
(1)相手方が裁判所に出した証拠書類
 〇2013年12月1日 『毎日新聞』
  ■同館は、松井一郎知事が「自虐的な部分があった」として、リニューアルを指示
 〇2014年10月11日、『産経新聞』)
  ■「南京事件」ナレーション原案をめぐる経緯
  ピースが原策作成→大阪府が教科書どおりの記述を要請→ピースが原案変更→橋下・松井が干渉
  ■橋下氏が「財団の定款から逸脱している」と表情をこわばらせたのだ。
  ■財団や府・市の担当者「これでダメだと言われると非常に難しい」。財団や府・市の担当者は橋下氏の反応に口をそろえる。
  ■松井一郎知事も異議を唱えた。「(通州事件に比べて)感情的に誘導されるような表現になっている」
  ■府市と財団では展示内容について「府内の中学校で広く使われている教科書に準拠する」と決めていた。
 〇2015年5月1日『朝日新聞』
  ■大阪維新の会の府議が議会で「変更した展示物が多すぎる」と追及。    
  ■橋下徹前知事が、「展示内容が不適切となれば、廃館も考える」と議会答弁。
  ■ピースおおさかの関係者は「施設を存続させるには従来の加害展示をなくすしかなかった」
(2)原告側が裁判所に出した証拠書類
 〇ピースおおさかの展示・イベントなどの事実上の責任者であった元専門職員(学芸員)の意見書
  ■「2008年に大阪府知事となった橋下徹という人は、そのような為政者の姿勢(為政者なら本来持っているべき“文化に対する姿勢”)、には全く無頓着であり、自らの政治的強権により大阪府の出資法人(ピースおおさかもその一つです)を支配し、2012年に大阪市長となってからは、私を中心に部内で作りつつあったピースおおさかのリニューアル案を突然、一方的に中止させ、いわゆる加害展示の撤去というプランを押し付けてきたのです。その過程は、まさに有無を言わさない、独裁的なものでした。

◆3 裁判の判決の内容
 (公財)ピースおおさか・大阪府・大阪市が裁判所に提出した証拠書類は、大阪府知事と大阪市長の展示内容に不当な干渉したことを証明するものでした。ところが、大阪府は裁判において、ピースおおさかの展示内容に不当に干渉してはならないと主張し、裁判所もこれを認めました。そのことを判決文には次のとおり明記されており、今回の改悪再開館が正当性のないことを表しています。
〇大阪府の裁判 大阪高等裁判所・判決文(2017年11月30日)
 ■大阪府の主張
  ◇「本件センターは、被控訴人と大阪市の出資による法人であるが、被控訴人とは別の独立した法人であるから、被控訴人はその自立的な運営等に十分な配慮をしなければならない(甲17 大阪府の出資法人等への関与事項等を定める条例3条)」(11ぺージ)
  ◇「展示内容の選択や展示前に展示内容をどの程度明らかにするかについては本件センターに裁量権があり、そのこと自体が本件センターの正当な利益に該当するから、本件文書を開示することは、上記裁量権を害し、被控訴人が不当な干渉をすることになる。」(11ページ~12ページ)
 ■裁判所の認定 
  ◇「キ 被控訴人は,展示内容の選択や展示前に展示内容をどの程度明らかにするかについて,本件センターに裁量権があり,そのこと自体が,本件センターの正当な利益に該当すると主張する。しかし,本件センターに上記のような裁量権を肯定する余地があるとしても,それが本件センターの正当な利益として保護されるためには,本件文書を公開しないことが本件センターの正当な裁量権の行使として是認されることを要すると解すべきである。しかるところ,本件文書に記録された情報の性質や本件センターの高い公共的性格など前記説示に係る諸事情に鑑みると,これを公開することにより害されると被控訴人が主張立証する本件センターの利益の性質及びその内容,程度等を考慮しても,本件文書を公開しないことが本件センターの正当な裁量権の行使として是認されるものとは解されない。 」(26ページ)


※2019年5月24日に大阪府・大阪市の敗訴が確定しました。そのことについてのマスメディアの報道は、このブログ2019年5月28の「「ピースおおさか」戦争展示巡る文書非公開 府と市の敗訴確定」をみてください。
  https://blog.goo.ne.jp/kisyuhankukhainan/e/70534cfb9e8efe7f9cc9e8cf6d927c24

証言から学ぶ海南島の抗日闘争

2019年08月27日 | 海南島近現代史研究会
 以下は、2019年8月24日に開催した海南島近現代史研究会第13回総会・第24回定例研究会(主題:侵略戦争⇔抗日戦争、植民地支配⇔抗日反日闘争)での斉藤日出治の報告(証言から学ぶ海南島の抗日闘争)の要旨です。

                         海南島近現代史研究会

■証言から学ぶ海南島の抗日闘争■
                                
■はじめに
 海南島における日本の侵略犯罪の調査活動を通して、わたしたちはこの侵略に抗する島民の抗日戦争・抗日反日闘争についても、多くの証言を聴きました。その証言が語り出すものを自分なりに整理してみました。

■一 日本による海南島の軍事占領と抗日闘争
 1 日本は何のために海南島を軍事占領したのか
 一九三九年二月一〇日、日本はこの「南進」政策のための軍事的拠点とすべく海南島を占領しました。日本にとって海南島は、「南進」のための中継拠点であると同時に、「大東亜戦争」遂行のための「戦略資源の供給地」でもありました。この島には、鉄鉱石、錫、水晶、タングステンなどの鉱物資源が豊富に埋蔵されていたからです。防衛研究所所蔵の『海南警備府戦時日誌』を読むと、たとえば一九四二年一月の「一般情勢」には、こう記されています。
 「大東亜戦争ハ不敗の戦略的体制ヲ完整シ南方諸域ニ於ケル友軍ノ戦果拡充ニ伴ヒ本島ハ其ノ中継基地並ニ戦略資源供給源トシテ繁忙且重要ナル使命ヲ担当スル事トナレリ」。

 2 海南島民衆は暮らしと生命を守るために闘った
 日本は、みずからの侵略戦争を推進するという目的のために、海南島に住むひとびとの暮らしを利用しようとしたのです。日本軍は海南島の農地を奪い、村を襲撃して、家を焼き払い、食糧・家財道具・家畜・家屋を奪いました。女性に乱暴し、乳幼児、女性、若者、高齢者を無差別に殺害し、村人を日本の軍事施設、軍用道路、飛行場、トンネルなどの建設に駆り出しました。
 この日本軍の破壊活動に対して、海南島の民衆はみずからの暮らしと生命を守るために立ち上がります。この抗日の闘いは、日本による海南島の統治が経過するとともに沈静化するどころか、その逆にますます勢いを増していきます。

 3 日本は「治安」の確保のために抗日闘争を徹底的に弾圧した
 日本軍は、「南方」侵略の拠点化と「戦略資源供給」という2つの目的を推進するために、抗日闘争の広がりを抑え込まねばなりませんでした。そのために、「共産軍ノ捕捉殲滅」および「徹底的治安ノ確立」のための軍事作戦を強化せざるをえなくなります。
 1942年11月1日に開始された「Y7作戦」には、日本のこの方針が明記されています。 「Y7作戦」を遂行するために発せられた海南警備府司令部「Y7作戦ニ関スル参謀長口述書」には、次のように記されています。 『海南島近現代史研究』4/5号130頁
 「Y7作戦の目的は・・・海南島北東部に蟠踞蠢動(ばんきょしゅんどう)シツツアル敵共産軍ヲ捕捉殲滅スルヲ主眼トシ、・・速ニ本島内全域ニ亘ル徹底的治安ノ確立ヲ期スルニ在ル」。
 「共産及ビ敵匪ノ行動セシニ関シテハ次ノ要領ニ依リ処理アリ度
   (イ) 共産ハ之ヲ清掃ス
   (ロ) 敵匪ト通ゼシ者ハ厳重処分ス」。

 「清掃」とは「共産」の拠点となっている村を襲い、村人をすべて殺害し、村を焼き払い、すべてのものを奪う、ということを意味します。
 村民虐殺と村の焼き討ちや略奪は、日本が海南島に侵入した当初から行われていました。しかし、このような日本軍の蛮行は、海南島の住民の反発と抵抗を強め、抗日闘争をますます拡大したために、日本軍は「民心ノ安定」のためその蛮行を控えるように、という指令を出さざるをえなくなります。
 たとえば、1942年6月「海南警備府戦時日誌」の「作戦指導」の項目では、「占領地ノ粛清強化」の課題として、「基準工作の実施宣伝宣撫民心ノ安定」のため、「民家ノ焼討等ハ実施セザルコトトセリ」、という指令が下されました。<民家の焼き討ちは控えるように>という指令を出さざるをえないほどに、日本軍に対する海南島民衆の反発と抵抗が高まっていることがわかります。
 ところが、「Y7作戦」では、「焼き討ちを控える」ことができないほどに海南島民衆の抗日闘争が高揚したため、日本軍は「共産ハ之ヲ清掃ス」、「敵匪ト通ゼシ者ハ厳重処分ス」というジェノサイドの方針を出さざるをえなくなります。日本軍が残した公式の文書記録には、海南島民衆の抗日闘争の高揚とその高揚に海南島民衆のジェノサイドで応じた日本軍の行動が押し隠されているのです。

■二 抗日・反日闘争の諸相
 わたしたちは海南島の各地の村で、村民の抗日・反日闘争のさまざまな闘い方について多くの証言をいただきました。その証言を以下に紹介します。

◆村を守る闘い-共産党の村に対する日本軍の襲撃
 楊兆経さん、1928年生、儋州市和慶鎮和慶村 2012年3月21日聞き取り
 「17歳共産党に入党、抗日闘争に参加、村人に勧められて入った。当時、みんな共産党に入党した。第8団に所属し、海南島各地の山の中を転々とした。機関銃と歩兵銃が武器で、自分は歩兵銃をもった.山の防衛の仕事、上官の世話が中心で、戦闘への参加はなかった
米は村人が運んでくれた」。    斉藤日出治『アジアの植民地支配と戦後日本の歴史認識』31頁

 黄伯木さん1931年生、儋州市蘭洋鎮羊龍村 2012年3月21日聞き取り
「1944年2月6日、日本軍が70-80名で村を襲撃し、村のほとんどのひとが殺された。
老人6人と子ども20人が一つの部屋に閉じ込められ、全員が焼き殺された
残った若者50人は食糧を谷古嶺の軍営まで運ばされた後、全員が刺し殺されて井戸に投げ込まれた。殺された理由は、日本軍が敗戦間近になったために起こした大虐殺であり、もうひとつは、この村が共産党の村だったことだ」。
                 斉藤日出治『アジアの植民地支配と戦後日本の歴史認識』33頁

 林道林さん、1930年生 (脳梗塞のためにお話しが聴けず)ご子息の話、瓊海市白石嶺村にて、2011年10月30日聞き取り
 「日本軍は明け方に村を襲って、7人を焼き殺した。日本軍は村に入ると、家捜しをして、家に塩や肉があるのを見つけると、共産党のためにそれが用意されたと判断して、7人を焼き殺した。日本軍は、そのあと近辺の家をすべて焼いた。村の村長の家だけは焼かれずに残された。次女は銃剣で刺され、火の中に投げ込まれた。家の中のものはすべてが奪われ、それから火がつけられた。山に逃げた人は共産党が多かった。村に戻ると、また襲われるので、山で暮らした。日本軍は共産党のことを察知してこの村に侵入してきた。米や塩を余分に持っていたり、銃を掃除する者が見つかると、共産党の支持者として疑われた」。
                 斉藤日出治『アジアの植民地支配と戦後日本の歴史認識』17-18頁

◆村人と抗日部隊との協力関係
 洪仁瑞さん1927年生 昌江黎族自治県昌化鎮浪炳村、2013年3月28日聞き取り 『海南島近現代史研究』4/5号、76頁
 「日本軍が来た時には共産党の軍隊に入っていたので、村にはいなかった。1942年ころ共産党の部隊に入隊したので、それまでは村にいた。部隊は、那大、臨高、昌江など、あちこちを回った。
 日本軍と待ち伏せ攻撃で戦ったこともあった。そのときは、機関銃を二台奪い、日本兵を10-20人ほど殺した。国民党と共産党がいっしょになって、日本軍と戦った。中国軍は準備が十分に整っていたので、待ち伏せ攻撃をすることができた。
 日本軍が村に入ったとき、日本軍ははじめに李宏欣の家を焼き、李宏欣を昌城に連行して殺した。妻は李宏欣の目の前で犯された。その後「慰安婦」にさせられた。また、目の見えない80歳の女性が強姦されたこともあった。
 わたしが共産党に入ったのは、日本軍の蛮行を知って憤ったためである。日本軍は村人に橋をつくらせたり、道路工事をさせた。場所は昌城の近くだった。12-13歳くらいの少女が馬のえさのために草刈りをさせられ、そのあと強姦されたことがあった。鍾秀妹という人で、殺されなかったが、そのために病気になってまもなく死んだ。
 村では、婦人会、青年団、児童団などが組織された。これらの組織は情報収集などの仕事をした。遊撃隊の武器は拳銃で、弾は十数発しかなかった。・・・日本が負けた時は五指山にいた。・・日本軍に勝利してから村に戻った。それまでは一度も村に戻らなかった。」
 
◆遊撃隊による日本軍の炮楼攻撃-村と遊撃隊が一体となった闘い
 陳徳興さん1931年生、昌江黎族自治県海尾鎮白沙村、2013年3月28・29日聞き取り 『海南島近現代史研究』4/5号、77頁
 「日本軍は「鶏籠坡」に炮楼を建設した。朝、遊撃隊が炮楼建設の労働者のかっこうをして稲のところに隠れていた。時が来て襲撃して、炮楼にいた日本兵13人を殺した。
 遊撃隊が使う武器は短いので、稲わらで隠していた。レンガとセメントをつくる労働者のふりをして、炮楼の近くまで行って隠れて、急に襲撃したので、日本軍は驚いた。銃のない遊撃隊は、日本兵の銃を奪った。日本兵の銃をすべて奪って山のほうに逃げた。
戦いはすぐに終わった。長くても30分くらい。・・短い時間で攻撃を終えて山に逃げた。
 わたしはこのとき、炮楼の中にいた。遊撃隊が日本兵を射殺するときも見ていた。炮楼の床に倒れている日本兵を12,3人見たが、確かに死んでいたかどうか、わからない。
 遊撃隊は8人か9人。しごとで炮楼にきたとき、遊撃隊がいることはわかっていたが、ゆっくり炮楼に入りなさいといって、遊撃隊の大人が先に炮楼に入って、「キリ」と言って、つぎつぎと銃で殺した。・・日本軍が海尾からトラックでやってきたが、着いたときは、遊撃隊はみんな山に逃げてしまっていた。
 このあと日本軍が村を襲って、村の若い男の人をみんなつかまえていった。白沙の村は2日間にわたって包囲された。村では猟銃で少し抵抗したが、日本軍は山地砲も撃ってきたので、村民は山に逃げた。女性も、赤ん坊を抱いてみんな逃げた。日本兵が捜索するので、赤ん坊の口を押さえて息ができなくなり、ひとり死んだ。
 保長が日本軍を案内して入ってきたが、村にはだれもいなかった。村は、一軒残らず焼かれてしまった。
遊撃隊の家族は、かゆとかさつまいものスープをかついで、山に逃げた遊撃隊に届けた。・・遊撃隊のリーダーは、この村の人。李芝茂。(案内してくれた)符克民さんの母の兄。日本軍が来たら山に逃げ、もどったら帰ってくる。そういう生活を繰り返していた。何年も続いた。日本軍が海南島から撤退したあと、村に戻ってきた。」
              
◆子どもたちが児童団として抗日闘争に参画する
 王進良さん1931年生、文昌市南陽鎮老王村、2015年4月2日聞き取り  
 「児童団に入った。香港から来た人が厚い歌の本を持ってきて、指揮もして唄を子どもたちに教えた。この先生は後に日本軍と戦って死んだ。張緒江。もともと南陽郷の人で香港に行っていて、ここに戻ってきた。20代か30代。習った唄は、「土地はわれわれの土地」。これは日本軍と戦って死んだ人の葬式のときに歌った。
 小さくて銃を担ぐことができないので、村の学校で勉強をした。教科書はなく、先生が黒板に書いたのを、帳面に書いて覚えた。歌を教えたのと同じ先生。南陽地区には児童団が勉強する場所が何カ所もあった。先生は何人もいたが、歌を教えたのは張先生だけ。今日はどこそこの村、明日はどこそこの村、と先生が回る。・・
 児童団は20人から30人。女の子もいたが、すくなかった。・・・仕事は、道案内。昼も夜もした。ほかに、よそからくる見慣れない人を見張る。遊撃隊の活動地域に市場が4つあった。そういう人が来ると、声をかけて、どこから来たか、どこへ行くのか、何しに行くのか、聴く。もう一人は、遊撃隊に知らせに行った。共産党地域の市は、一日ごとに開く。開市のときはかならず市に出て、外から来る人を監視した。金花村、羅廊村、老村坡。市の場所はときどき替わる。共産党支配地域の住民たちの市場。わかれば日本軍に攻撃されるので、ときどき替える。」

◆強制労働に対する抵抗
 陳桂春さん、1924年生、屯昌県新興鎮ト文村、2012年3月22日聞き取り
 「村の近くの山の上の望楼の工事に村人が駆り出された。道路工事・望楼建設に駆り出された村人が夜にみんなで酒を飲んだときに、望楼を攻撃しようという話をして、それが日本軍の耳に入り、工事が終わった後、日本軍は村人200-300人を集めて、高齢の女性7人を見せしめに殺した。私の母を含む7人の女性は銃剣で刺し殺された後、村人に穴を掘らせてその場で埋められた。6名の遺族はのちに遺骨を掘り出して、村でお墓をつくったが、わたしは貧しくてお墓がつくられず、いまだここに小石を置いて毎年お参りに来ている。」
                     斉藤日出治『アジアの植民地支配と戦後日本の歴史認識』34頁
◆先住民黎族の抗日闘争
 邢亜响さん、1923年生 楽東黎族自治県尖峰鎮黒眉村  『日本の海南島侵略と抗日反日闘争』40頁 
 「日本軍と何回も戦った。射って、さっと場所を変えて、射って、また場所を変えて、射った。自分たちの銃はよくなかった。火縄銃だ。火薬を入れて使う。・・弓も使った。矢じりは鉄だった。
仲間は50人くらい。みんな黒眉村の人。女性もいた。女性兵士は、炊事をした。機関銃をもつ日本軍と戦うのは恐くなかった。死ぬことを恐れなかった。死んでも、光栄だと思った。日本兵を殺して銃を奪った。日本兵を殺して、銃を奪った」。
 2度目の訪問、2011年3月1日の聞き取り
 「わたしはこの村の共産党員からなる20名ほどの遊撃隊のグループの組長で、何回も抗日の戦闘に参加した。村には住んでいられなかったので、山の中に洞窟を掘って住み、日本軍が来ると逃げた。日本軍のスパイが居て、われわれの部隊の居所を日本軍に教えたため、山を包囲されたこともあったが、その洞窟に逃げ込んで難を逃れた。7日間連続で闘ったこともあった。
遊撃隊を元気づける歌「おれたち中国人は亡国の奴隷にはなりたくない」という共産党が作った歌を歌った」。
                   斉藤日出治『アジアの植民地支配と戦後日本の歴史認識』7頁 

 林秋華さん、板橋鎮高園村  『日本の海南島侵略と抗日反日闘争』38-39頁
 「1943年に、瓊崖従隊に入った。妻は村の民兵だった。遊撃隊の前は、紅軍にいた。日本軍が来た時、女が2人、男が4人殺された。家も燃やされた。この村は50戸だった。羊、牛、豚、とりは全部奪われた。みんな山に逃げた。子どもを背負って逃げた。日本軍が引き揚げたら、また村に戻ってきた。
 日本軍とも国民党とも戦った。攻撃されたから戦ったのだ。感城での戦闘がいちばん激しかった。わたしたちは、300人。こっちが勝った。日本軍は30人。日本軍から機関銃を奪った」。
これに対して、『横鎮四特戦闘詳報』(1945年6月5日)には、林秋華さんたちの抗日闘争を裏付けるつぎのような報告が記されています。
 「高薗村に通ずる道路側のはほとんど共産化され、治安悪化、討伐のたびに射撃を受ける、10:30-12:00に高薗村の焼却をはじめ、全部焼却」。
             
◆女性戦士の抗日闘争
 周瓊波さん1923年生、海口市東山鎮
 「15歳のとき、地下組織に入り、宣伝工作や連絡工作を担当した。1941年8月分遣隊の道路に地雷を仕掛け、尊譚炮楼の日本兵2人と偽軍兵士1人を殺したことがある。撃隊員として日本軍の車を9台襲撃したこともあった。屯昌、万寧、文昌、舗前など各地で闘った。各地の村人に助けてもらったので戦い続けることができた」『日本の海南島侵略と抗日反日闘争』41頁

 孫家田さん1922年生、三亜市、梅山鎮  『日本の海南島侵略と抗日反日闘争』41頁
 「1941年共産党に入党、入党後まもなく、日本軍に殴られ、足を傷つけられた」
                  
 蘇景親さん 1919年生  『日本の海南島侵略と抗日反日闘争』41頁
 「1941年に共産党に入党し、日本軍が来たとき山に入り、抗日軍ノ一員として、炊事などを担当した」

 王愛花さん 東方市板橋鎮 2011年3月1日-2日聞き取り
 「母がすでに亡くなっていて、父と兄弟3人が共産党だった。1937年に共産党の児童団に入った。これも極秘で、知られると家族が殺された。1942年に入党して、遊撃隊の衛生員として働いた。当時、薬はほとんどなく、消毒剤として赤チン、あるいは漢方の薬草を使った。1942-1943年ころに日本軍を奇襲したことがある。道路に穴をあけて、そこに日本軍を落として、銃を発射した。そのとき4人を殺害し、4台の機関銃を奪った。そのために、自分たちは2台の機関銃をよその部隊から借りていたが、その2台を返すことができた。
 「兄は20歳の時に抱利村で包囲されて闘ったが、撃たれて死亡した。弟は14歳でそのとき逃げたがつかまり、身代金を出せば返してやる、と言われて、父がお金を用意してもっていったところ、父も捕まり、二人とも殺された。自分はそのとき八所にいたので、父と兄弟の死を知ったのは一ヶ月後だった。」
 「日本軍への攻撃は何度もおこなった。新街に日本軍が駐屯していたところを襲撃し、そのときは二人がけがした。海岸嶺の戦闘では多くの死者を出した。遊撃隊の4隊がいっせいに攻撃したが、隠れる場所がなく、望楼から攻撃されて、多くの死者を出した。新街の近くで闘ったときは、自分は手榴弾でけがをした。そのほか、小さな戦闘は無数にある。
日本が敗北したときは、ちょうどサツマイモを食べていて、連長が、日本が負けたから、これからは米を3度食べられる、と言ったことを覚えている」。
                     斉藤日出治『アジアの植民地支配と戦後日本の歴史認識』8-9頁

 張景秋さん、1920年生、海口市長流鎮 2011年3月3日聞き取り
 王愛花さんと同じ遊撃隊の女性兵士の証言です。
 「日本が侵入する前、16歳のときに共産党の児童団として革命運動に参加した。日本が侵入してくることが分かった1938年に板橋鎮の村では13名が共産党に入党した。指導的な人物は、黄国栄さんで、この人の家で会議をやっていて、自分も参加して、革命運動の進め方、党員の勧誘の仕方などを話し合った.日本軍はスパイを通してそのことを知り、黄さんの父と兄と妹を捕まえて共産党の名簿を出すように迫った。答えなかったので、日本軍は黄さんと兄の首を切り、妹は腹を切り裂かれて内蔵を取り出された。このとき日本軍の司令官は「自分は中国人を殺さないと手足の力が抜ける。中国人を殺すと元気が出る」と言った。母親はこの処刑を見て、悲しみのあまり死んでしまった。黄国栄さんの妻の陳秋月さんは黄さんの死後に革命運動に参加して、1943年の戦闘で片目を撃たれて失明した」。
 「わたしは1941年に遊撃隊に加入して、衛生員として活動した。総計で70-80回ほどの戦闘にたずさわった。手と足に銃弾を受けて、傷跡が今も残っている。手の指は曲がってしまった。石碌の近くでも負傷し、黒眉村の戦闘では、日本軍に包囲され、日本軍が投げた爆弾の破片で負傷した。」
 「板橋鎮の北辺村の家も焼かれた。両親は日本軍が来る前に亡くなっていたので、身寄りがなく、さらにこの村で13人が共産党員に入ったために村がひどい目に遭い、村人からも白い目で見られたこともあり、1940年に板橋鎮を出て以来、村にはずっと戻らなかった。兄が一人いたが、兄も共産党に入り、日本軍につかまって殴られて死んだ。私が解放後村に戻ったのは2004年になってからだった。北辺村にも日本軍の炮楼があり、銃撃隊がその炮楼を攻撃したこともあったが、この攻撃に自分が参加すると村に迷惑がかかると思い、そのときは参加しなかった。」
 「海南島の遊撃隊は五つの団から編制されていた。一団は文昌、二団は五指山、三団は万寧、四団は臨高、五団はすくなくて、ときどきは四団に組み込まれていた.私は五団に所属し、ときに四団にいたこともあった。わたしは衛生員の拝長をして、看護婦として仕事をした。活動範囲は海南島の全域だった」
 「6年間の戦闘は大変だった。食べるものも着るものもなかった。とくに1941-43年が一番苦しいときで、食べるものがなくて、木の葉やバナナの葉を食べてしのいだ。しかし、五指山のふもとで誕生した共産党の勢力は、最初は弱かったが、年ごとに強くなり。指導者は闘って必ず勝つ、と激励してくれた。・・そしてその通りになった」。
                     斉藤日出治『アジアの植民地支配と戦後日本の歴史認識』9-10頁

■むすび
 これらの証言から明らかとなるのは、海南島の民衆による抗日戦争、抗日反日闘争が、日本軍による海南島民衆の暮らしの破壊に抗して、海南島民衆がみずからの暮らしと生命を守る闘いだった、ということです。日本はこの暮らしと生命を守る民衆の闘いに対する攻撃を「討伐」と呼んで、村民の無差別殺戮をくりかえしました。

日本の植民地支配に抗した朝鮮民衆と海南島民衆

2019年08月26日 | 海南島近現代史研究会
 以下は、2019年8月24日に開催した海南島近現代史研究会第13回総会・第24回定例研究会(主題:侵略戦争⇔抗日戦争、植民地支配⇔抗日反日闘争)での金靜美の報告(日本の植民地支配に抗した朝鮮民衆と海南島民衆)の要旨です。

                        海南島近現代史研究会


■日本の植民地支配に抗した朝鮮民衆と海南島民衆■

㈠ 朝鮮
 1894-1895 甲午農民戦争
        □以降、義兵戦争が継続→朝鮮から中国東北部へ
 1895    甲午改革   
 1897    大韓帝国の成立
 1904.10   目賀田種太郎が財政顧問。11月、硬貨の鋳造を行っていた典圜局を閉鎖。
 1905. 7    大阪造幣局で大韓帝国の貨幣鋳造
 1905.11   乙巳保護条約(第二次日韓協約)
        ※統監府
        ※外交権は日本が掌握
 1906     日本占領下の大韓帝国で、反日義兵が中心になって独立戦争開始。
       日本側文書によっても1万7千人を越す朝鮮民衆が殺害された(朝鮮駐箚軍司令部『朝鮮暴徒討伐誌』1913年)。
 1907. 7   第三次日韓協約
        ※軍事権は日本が掌握(8.1.大韓帝国軍隊の武装解除)
 1910. 8   「韓国併合ニ関スル条約」
       ※朝鮮総督府
        □以降、農民運動、労働運動、社会主義運動、独立運動が持続
 1919    三・一独立運動
 1919    大韓民国臨時政府(上海)
 1929.11~ 光州学生運動 
 1939. 7.28 「朝鮮人労務者内地移住ニ関スル方針」・「朝鮮人労務者募集要項」公布
 1944. 4   朝鮮人に徴兵制実施
 1945. 8.14 朝鮮解放 

証言 趙萬濟さん(1924年生) 2014年5月26日、ソウルで
 「(徴兵のときは)身体検査に合格したら赤紙が来る。1944年、甲種合格を受けて……。行ったら生きて帰る保証はない。
 1945年1月1日。いつ徴兵が来るかわからない。ほとんど満洲に行かされた。赤紙が来る前に逃げなくてはいけない。赤紙が来てしまうと、逃げるのはむずかしいし、逃げると家族に何がおこるかわからない。父が勝手に決めた結婚がいやだから、逃げたということにした。家族に害がおよばないように。
 人の目に触れないし、水があるところ。それで、俗離山に逃げて、8か月間隠れ住んだ。
 だれも知らなかった。
 夜は寝て、昼は山をあちこち移動する。食べ物は自分でなんとかする。山には食べ物がたくさんあった。草の根とか木の実とか。健康が保てた。
 俗離山に人がいるということは役場でも知っていた。薬草取りや炭焼きは役場が免許を与えるが、その人たちが山に来て、情報を渡すのだ。一度、警察と消防団に襲撃された。このとき、たまたま山裾の村に田植えの手伝いに行っていて助かった。
 終戦も知らなかった。日本の敗戦は、20日くらいたってからわかった。
 わたしの貴いいのちをなぜ人にために捨てるのか、なぜ天皇のために捨てなくてはならないのかと思った。死ぬ前にやることがある。政府がこしらえる死に場所を逃げるということは、死ぬか生きるかだった。
 徴用を逃げてきた人と一度だけ、いっときいっしょに山で暮らした。ほかにも日本の兵隊に行きたくなくて逃げた人はいるだろう」。

㈡ 海南島
 1911-1912 辛亥革命
 1912    中華民国の成立
 1912. 2   広東軍政府、瓊崖(海南島のこと)の民政事務をおこなう。
 1913    瓊崖鎮守府が成立し,軍政と民政をおこなう。
 1926    国民革命軍(国民党の軍隊)、広東省政府管轄下に瓊崖行政区委員会を設立。
 1932    広東省政府、瓊崖綏靖委員会公署を設立、海南島の軍民行政をおこなう。
 1936    海南島、広東省の第9行政督察区になる。
 1939. 2 日本軍上陸、占領。
 1939. 7.15 日本軍(海南海軍特務部)、傀儡「海南島臨時政府(瓊崖臨時政府)」設立。
※1932. 3. 1日本政府、傀儡「満洲国」をつくる。長春を新京と改名して「首都」に。
※1937.12.14日本政府、北京で傀儡「中華民国臨時政府」をつくり、河北省、山東省、河南省、山西省の華北四省、北京市及び天津、青島市などを支配。中国聯合準備銀行券(聯銀券)を発行、華北自治軍という軍事組織をもつ。
※1939. 9. 1 日本政府、張家口に傀儡政府「蒙古聯合自治政府」をつくって、モンゴル南部・河北地域を支配。

㈢ 海南島で出会った朝鮮民衆と海南島民衆
 朝鮮女性と海南島女性
 「朝鮮報国隊」と海南島民衆

国民国家日本の他地域他国植民地化の歴史

2019年08月25日 | 海南島近現代史研究会
 以下は、きのう(2019年8月24日)開催した海南島近現代史研究会第13回総会・第24回定例研究会(主題:侵略戦争⇔抗日戦争、植民地支配⇔抗日反日闘争)での佐藤正人の報告(国民国家日本の他地域他国植民地化の歴史)の要旨です。
 次回の海南島近現代史研究会第25回定例研究会は、来年(2010年)2月8日に開催します。

                       海南島近現代史研究会

■国民国家日本の他地域他国植民地化の歴史■

■日本軍海南島奇襲上陸(1939年2月10日)から80年 
 海南島侵略開始・アジア太平洋戦争準備開始80年
 国民国家日本のアイヌモシリ植民地化(1869年9月)から150年
■侵略者の世界史は、被侵略者の抵抗の世界史
 世界近現代史は、帝国主義諸国の他地域他国侵略と被侵略諸地域諸国の民衆の反撃の歴史
 世界史はいつ成立したか 13世紀~15世紀   宇宙史、地球史、人類史、世界史 
 他地域他国侵略の世界史的構造
■日本の近現代史は、他地域他国侵略の歴史
 ※アイヌモシリ侵略後:琉球王国侵略、台湾侵略、朝鮮侵略、南洋侵略、中国東北部侵略、モンゴル東南部侵略、中国本土侵略、海南島侵略、アジア太平洋侵略。
※アジア太平洋侵略後:1945年8月以前も以後も、1868年からの国民国家日本の他地域他国侵略の構造は同じ。日本国家の他地域他国侵略の歴史は終わっていない。
 ゼロからの出発という虚偽。1945年8月以後、天皇制を前提とした「平和憲法」下の日本国家・日本軍・日本企業の他地域・他国侵略。朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、アフガニスタン戦争に参戦。
 2001年12月2日、日本海軍軍艦が、アラビア海で作戦行動中のアメリカ合州国軍艦に燃料を洋上補給。アフガニスタン民衆殺戮に直接荷担。このとき、アジア太平洋侵略戦争後はじめて、日本正規軍が侵略戦争に参戦。
 1999年8月13日、侵略の旗「ヒノマル」を国旗に、天皇賛歌「キミガヨ」を国歌に。
    8月25日、他地域・他国軍事侵略のための「周辺事態法」施行。
 2013年12月6日 秘密保護法成立。2014年12月10日施行。
 2015年9月30日、戦争法(「平和安全法制整備法」+「国際平和支援法」)公布。「周辺事態法」を「重要影響事態法(重要影響事態に際して我が国の平和及び安全を確保するための措置に関する法律)」に改名・改悪。3月29日、戦争法施行。
 2017年7月11日、「共謀罪法(改正組織犯罪処罰法)」施行。
■国民国家日本の侵略犯罪の社会的軍事的思想的構造
◆国家と社会と個人
 1868年1月 維新クーデタ→天皇の軍隊(臣民の軍隊)の創設
 1889年2月11日 「大日本帝國憲法」発布(1890年11月施行。「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」、「日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ従ヒ兵役ノ義務ヲ有ス」)。
 1890年10月30日 「教育ニ関スル勅語」発布(「我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億  兆心ヲ一ニシテ……常ニ国憲ヲ重ジ国法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉 シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」)。
◆天皇の軍隊による住民虐殺、性暴力、略奪(略奪による補給)
◆民権・国権・愛国心
◆神社(国民・臣民支配の装置) 靖国神社・護国神社  神道
■国民国家形成 国境・国民・民族  独立・建国
 フランス 1789年革命
 日本(「臣民」国家日本) 1867年 維新クーデタ
 『日本における情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ』(1932年5月、コミンテルンで決定)。『赤旗』1932年7月10日特別号
     支配体制:絶対主義的天皇制、地主的土地所有、独占資本主義の3ブロックの結合。
     天皇制:地主階級と独占資本の代弁者で絶対主義的性格をもつ政体。
 ドイツ 1871年1月18日、ドイツ帝国(Deutsches Reich)成立(フランスとの戦争に勝利したプロイセンが、22個の君主国と3個の「自由市」を併合して形成)。
 アメリカ合州国 1776年7月4日、13植民地が独立宣言。1783年9月3日、独立。1861年4月12日~1865年4月9日、南北戦争(アメリカ合州国・アメリカ連合国)。
 「イスラエル」建国 1948年5月14日 ナクバの日(パレスチナでシオニスト武装集団は、アメリカ合州国をはじめとする帝国主義諸国の軍事・経済・政治支援のもと「イスラエル国」をつくった)。シオニストのパレスティナ侵略史は、アメリカ合州国……日本国……の歴史。
■国家 国民国家 植民地 独立(国家形成)。民族・種族
■戦争責任・侵略責任
 アジア太平洋侵略戦争は誰がおこなったのか。
 日本民衆は侵略戦争の加害者として戦争に反対しているか。反戦・反侵略
 侵略。戦争。占領。領土化。植民地化。併合。不等価交換。
 侵略と開発、ポストコロニアリズム
■他地域他国侵略をゆるさない民衆の歴史認識
 琉球王国、台湾民主国、マダガスカル(メリナ王国)、ハワイ王国。
 アヘン戦争、義和団戦争、マジマジ戦争、義兵戦争、シベリア戦争、台湾戦争、海南戦争。
■植民地化・植民地支配
 政治的、経済的、軍事的、社会的、文化的、宗教的支配。
 統治権(三権:立法権・司法権・行政権)掌握。
 政府、暴力装置(軍隊、監獄)。
■海南島近現代史のなかの世界近現代史
 世界近現代史のなかの海南島近現代史

 1939年
 2月10日 日本陸海軍、海南島北部に奇襲上陸。
 2月11日 「紀元節」(1873年に「制定」)。
 2月14日 日本海軍陸戦隊海南島南部に上陸。 2月~11月 日本海軍海南島で「Y一作戦」。
 2月 三省(日本外務省、海軍省、陸軍省)連絡会議による海南島政治支配開始。
 2月16日 「海南島占領ニ伴フ政務処理要綱案」。
 2月24日 在海南島日本総領事館開館。
 3月1日 海口連絡会議(現地ニ在ル陸海軍各政務処理機関及外務派遣機関ヲ以テ構成)、「海南島施策要綱」決定。
 3月1日 海口連絡会議「海南島金融対策要綱(試案)」。
 3月21日 台湾銀行海口市店開業(軍票交換、預金、送金など)。
 3月30日 台湾総督府令第31号で、「新南群島」を日本の領土とし、台湾高雄市に編入。
 4月21日 陸軍省・海軍省・外務省「海南島政務暫定処理要綱」決定。
 5月11日 ノモンハン戦争開始。
    日本は「ノモンハン事件」、ソ連は「ハルハ河の戦闘」、モンゴル人民共和国は「ハルハ河戦争」。
 5月13日 興亜院、陸軍省、海軍省、外務省「漢口広東及海南島各方面重要事項処理ニ関スル件」申合せ。
 7月15日 日本軍、傀儡「海南島臨時政府(瓊崖臨時政府)」設立。
 8月23日 独ソ不可侵条約。
 9月1日 ドイツ軍、ポーランド西部に侵入。3日、イギリス・フランスがドイツに宣戦布告(第二次世界戦争開始)。
 9月1日 朝鮮総督府、「朝鮮人労務者募集並渡航取扱要綱」を出す(「募集」方式の朝鮮人強制連行開始)。
 9月16日 ノモンハン戦争停戦(15日深夜に合意)。日本軍戦死約 7000人、ソ連軍戦死約 9700人、モンゴル軍戦死約280人。
 9月17日 ソ連軍、ポーランド東部に侵入。
 11月 海南島根拠地隊編成(横須賀鎮守府第4特別陸戦隊、佐世保鎮守府第8特別陸戦隊、第15警備隊、第16警備隊)。2月以来、海南島軍政を担当していた日本海軍第5艦隊情報部、海南島海軍特務部と改称(規模拡大)。
 11月30日 ソ連軍、フィンランドに侵入(冬戦争)。

1941年
 2月3日 大本営政府連絡会議、「対独伊「ソ」交渉案要綱」決定。世界を「大東亜圏、欧州圏(「アフリカ」を含む)、米州圏、「ソ」聯圏(印度「イラン」を含む)の四大圏」に分割し、日本は「大東亜共栄圏地帯に対し政治的指導者の地位を占め秩序維持の責任を負う」とした。
 2月~3月 日本海軍、海南島で「Y三作戦」。
 4月1日 海南島根拠地隊、海南警備府に「昇格」。海南警備府司令部、三亜に。
 4月~10月 日本軍南機関、アウンサンらを、海南島で軍事訓練(12月、アウンサンら、バンコクでビルマ独立義勇軍結成)。
 4月13日 日ソ中立条約、モスクワで調印(4月25日発効)。
 5月 海南島海軍特務部、海南海軍特務部と改称(海南島軍政機関の形態整備)。
 6月6日 大本営陸海軍部、「対南方施策要綱」決定。
 6月22日 ドイツ軍「バルバロッサ作戦」開始(ソ連を奇襲攻撃)。
 6月24日 日本海軍、海南島楽会県北岸郷で住民虐殺。
 7月2日 ヒロヒトら「情勢の推移に伴ふ帝国国策要綱」決定(「帝国は……大東亜共栄圏を建設……」、「帝国は……自存自衛の基礎を確立する為南方進出の歩を進め又情勢に対し北方問題を解決す」)。
 7月 海南島警備府司令部『海南島敵匪情况』(機密海南部隊命令第七号別冊)。
 7月24日 「仏領印度」南部(ベトナム南部・カンボジア)に侵入する日本陸軍第25軍約4万人(歩兵3個連隊、戦車・高射・鉄道・野砲兵・工兵各1個連隊)をのせた輸送船39隻、海南島楡林港に集結完了
 7月25日 日本海軍の艦艇約50隻と日本陸軍第25軍を輸送する39隻の計約90隻の船団、楡林港から「仏領印度」南部に出港→28日に侵入開始。
 8月 日本海軍海南島で「Y四作戦」(地域住民虐殺)。
 9月6日 ヒロヒトら「帝国国策遂行要領」決定(「帝国は自存自衛を全うする為対米(英蘭)戦争を辞せざる決意の下に概ね十月下旬を目途とし戦争準備を完整す」)。
 11月5日 ヒロヒトら、ふたたび「帝国国策遂行要領」を決定(開戦時を12月上旬に設定)。これは、11月2日の大本営政府連絡会議で決定されていた)。
 11月6日 大本営陸軍部・大本営海軍部、グアム島、ビスマルク諸島占領を決定。
 11月 大本営、海南島三亜港周辺に機雷敷設指示。
 11月15日 海南警備府司令長官「現状申告書」。
 11月18日 マレー作戦陸海軍協定、サイゴンで調印。
 11月20日 大本営政府連絡会議「南方占領地行政実施要領」決定。
 11月~42年1月 日本海軍海南島で「Y五作戦」(「南方」侵略の基地海南島の「治安」確保のため)。
 11月15日 第五師団先頭部隊、上海から海南島三亜に出発。
 11月26日 日本海軍「ハワイ作戦機動部隊」、エトロフ島ヒトカップ湾出発。
 12月1日 ヒロヒトと日本政府・日本軍の「指導者」らは、11月5日の「帝国国策遂行要領」に基づいて、アメリカ合州国、イギリス、オランダと戦争することを最終決定。
     マレー半島東海岸に奇襲上陸する日本陸軍第25軍先遣兵団(第5師団・第18師団)、海南島楡林港に集結完了。
 12月2日 大本営、「ニイタカヤマノボレ」(パールハーバー奇襲攻撃命令)発信。
 12月4日 日本海軍(「馬来部隊(南遣艦隊)」)が護衛する日本陸軍第25軍先遣兵団の船団、海南島楡林港出港。
 12月8日 午前1時半、日本陸軍コタバル奇襲、アジア太平洋戦争開始。午前3時、日本海軍パールハーバー奇襲。午前4時、日本陸軍ホンコン侵入(12月25日占領)。午前8時、日本海軍グアム島奇襲爆撃。午前9時半、日本陸軍フィリピンのルソン島ツゲガラオ飛行場・バギオ兵営奇襲爆撃。午後1時半過ぎ、日本海軍ルソン島クラ-ク飛行場奇襲爆撃。
 12月10日 日本軍、グアム島(1944年8月11日まで)、タラワ島(現キリバス共和国。1943年11月23日まで)、マキン島(1943年11月23日まで)占領。

1942年1月18日 日本・ドイツ・イタリアの軍統帥部が、東経70度線を日本とドイツ・イタリアの作戦地域を分ける線とする協定を締結。このとき日本軍部は、インド西部からウラル山脈にいたる地域から、南北アメリカ大陸西海岸にいたるまでの地域を「作戦地域」とすると想定。
1942年2月28日 大本営政府連絡会議、「大東亜戦争現情勢下に於て帝国領導下に新秩序を建設すべき大東亜の地域」を、「日満支及東経九十度より東経百八十度迄の間に於ける南緯十度以北の南方諸地域」とした。

■ことば(国家概念、民族概念)崩壊の時代
■日本軍兵士はなぜ住民虐殺をおこなったのか。なぜ住民虐殺をおこなうことができたのか。
■歴史認識は、人を動かすか?   認識と行動

※維新クーデタ後、現在にいたる天皇制  2019年8月2日に日本政府が閣議で輸出貿易管理令改正案(韓国をホワイト国から除外した日本の政令改正)を決定、8月7日に天皇が政令改正を公布。その後の8月28日に、政令改正施行。

海南岛近现代史研究会第13次总会・第24次定期研究会

2019年07月26日 | 海南島近現代史研究会
■海南岛近现代史研究会第13次总会・第24次定期研究会■

  日清战争后的1895年5月29日,日本开始侵略台湾,50年的时间,逐渐把台湾变为殖民地。台湾民众不断与日本的军事侵略和殖民化抗争。
  80年前的1939年2月10日,日本军奇袭登陆海南岛。之后的6年半里,海南岛民众从未间断与日本的军事侵略和殖民化进行抗争。
  1941年12月8日,日本军从被日本支配下的海南岛三亚港和択捉岛单冠湾出发,偷袭了马来亚的哥达巴鲁和夏威夷的珍珠湾,拉开了亚洲太平洋战争的序幕,将亚洲太平洋各国,各地域沦为殖民地。1943年5月31日,日本政府在「大东亚政略指导大纲」里写道,决定将「马来」、「苏门答腊」、「爪哇」、「婆罗洲」、「西里伯斯」作为帝国的领土,作为重要资源供给地极力开发,努力掌握民心」。
  帝国主义各国对各国各地域的军事侵略使用了政治化,经济化,社会化,文化支配的(其他地域其他国家殖民化)手段。帝国主义各国对各国各地域的军事侵略,殖民化的世界史就是被侵略地域,国家的民众的反抗斗争的世界史。
  日本侵略海南岛,80年过去了。日本对其他地域其他国家侵略的历史仍未结束。
我们希望和大家讨论在世界史范围内日本对其他地域其他国家侵略的历史,以及被侵略地域,国家的民众的反日抗日斗争的历史。
   
  时间:2019年8月24日(星期六)13时00分~17时(12时30分开场)
  地点:国劳大阪会馆 1楼大厅   从JR天满站出口往右拐(樱之宫站方向)200米          
  参加费,资料费:500日元(会员免费)
 
主题:侵略战争⇔抗日战争、殖民地的支配⇔抗日反日斗争
  ■主题报告  国民国家日本将其他地域其他国家沦为殖民地的历史   佐藤正人
  ■主题报告  海南大学里关于海南岛的外语文献研究         金山
  ■主题报告 反抗被沦为日本殖民地的朝鲜民众和海南岛民众     金静美
  ■主题报告 至今为止访问海南岛的切身体会          齐藤日出治

  ■讨论 海南岛近现代史・日本近现代史・世界近现代史
   日本在1869年将阿伊努莫西里沦为自己的领土(殖民地),在1872年又将琉球王国沦为殖民地。国民国家日本的历史是侵略其他地域其他国家,将他们沦为自己的殖民地的历史。我们一起讨论认识日本国家犯罪历史的民众方法。

  ■报告 对和平大阪改恶再次开馆的诉讼 确定胜诉         竹本升
  ■报告 『忘记过去意味着背叛』・『控诉 采访九位海南“慰安妇”的实录』发行日文版
  ■关于2019年秋季进行的海南岛近现代史第21次(第34次)海南岛「现地调查」

           海南岛近现代史研究会  http://www.hainanshi.org/

海南島近現代史研究会第13回総会・第24回定例研究会

2019年07月20日 | 海南島近現代史研究会
 8月24日に、海南島近現代史研究会の第13回総会・第24回定例研究会を開きます。
 主題は、「侵略戦争⇔抗日戦争、植民地支配⇔抗日反日闘争」です。
 みなさんの参加を待っています。
        海南島近現代史研究会 第13回総会・第24回定例研究会

■海南島近現代史研究会第13回総会・第24回定例研究会■
 清日戦争後の1895年5月29日に日本は台湾侵略を開始し、50年間、台湾を植民地としつづけました。台湾民衆は、日本の軍事侵略と植民地化に抗して戦いつづけました。
 80年前、1939年2月10日に日本軍が海南島に奇襲上陸しました。以後、6年半、海南島民衆は、日本の軍事侵略と植民地化に抗して戦いつづけました。
 1941年12月8日、日本支配下の海南島三亜港とエトロフ島ヒトカップ湾から出港した日本軍は、マラヤのコタバルとハワイのパールハーバーを奇襲攻撃しアジア太平洋侵略戦争を開始し、アジア太平洋の諸国家・諸地域を支配しようとしました。1943年5月31日、日本政府は、「大東亜政略指導大綱」で、「「マライ」、「スマトラ」、「ジャワ」、「ボルネオ」、「セレベス」ハ帝国領土ト決定シ重要資源ノ供給源トシテ極力之ガ開発竝ニ民心ノ把握ニ努ム」としました。
 帝国主義諸国の他地域他国軍事侵略は政治的・経済的・社会的・文化的支配(他地域他国植民地化)の手段でした。帝国主義諸国の他地域他国軍事侵略・植民地化の世界史は、被侵略地域・国家の民衆の抵抗の世界史でした。日本の海南島侵略から80年。日本の他地域他国侵略の歴史は終わっていません。
 世界史における日本の他地域他国侵略の歴史と被侵略地域・国家の民衆の抗日反日闘争の歴史について話しあいたいと思います。

と き:2019年8月24日(土)13時10分~17時(開場12時30分)
ところ:国労大阪会館 1階ホール JR天満駅改札口を出て右へ(桜ノ宮駅方向へ)200メートル
参加費・資料代:500円(会員は無料です)

主題:侵略戦争⇔抗日戦争、植民地支配⇔抗日反日闘争
■主題報告 国民国家日本の他地域他国植民地化の歴史           佐藤正人
■主題報告 海南大学における海南島に関する外国語文献研究        金 山
■主題報告 日本の植民地支配に抗した朝鮮民衆と海南島民衆        金 靜美
■主題報告 これまでの海南島訪問で学んだこと              斉藤日出治

■討論 海南島近現代史・日本近現代史・世界近現代史
 日本は、1869年にアイヌモシリを、1872年に琉球王国を領土化(植民地化)しました。国民国家日本の歴史は他地域他国侵略・植民地支配の歴史でした。日本の国家犯罪の歴史を認識する民衆の方法について討論したいと思います。

■報告 ピースおおさか改悪再開館に対する裁判 勝訴確定         竹本昇
■報告 『忘記過去意味着背叛』・『控訴 採訪九位海南“慰安婦”実録』日本語版発行
■2019年秋の海南島近現代史研究会の21回目(34回目)の海南島「現地調査」について

資本主義への抗い方  一人の生活者の実践報告

2019年02月18日 | 海南島近現代史研究会
 以下は、今月(2019年2月)9日に開催した海南島近現代史研究会第23回定例研究会での小田伸也さんの報告(資本主義への抗い方  一人の生活者の実践報告)の要旨です。


■資本主義への抗い方  一人の生活者の実践報告■
1 資本主義についての私の定義
 ・資本主義=欲望の際限ない拡大と富の無限の蓄積
 ・資本主義のエートス(倫理的生活様式)とは、拡大・成長が豊かさをもたらすという価値観
  が基調
 ・「中心(「先進国」等)」と「周辺(「途上国」等)」から構成。フロンティアを広げることによって
  「中心」が利潤率を高め、資本の自己増殖を推進していくシステム 
  →戦争、植民地支配、経済の不安定化・崩壊、地球環境の破壊等

2 資本主義社会から共産主義社会への過渡期をどう生きるか
 ・個人レベル
   ・「賃労働」(資本の下で資本を拡大再生産させるための労働)を出来るだけ少なくする。
    →低収入・低支出
      世界のGDPは70兆ドル強。これを世界人口で割れば1万ドル。仮に1ドル100円と
      すれば、一人当たりGDPは100万円。→収入の目安
   ・「商品」(購入には賃労働で得た貨幣が必要)を出来るだけ購入しない。
    →自給自足
   
 ・日本社会レベル
  個々人が可能な限り自給→不足分を地域で調達→さらなる不足分を国内で調達
  →貿易はオプション(他国に振り回されたり、逆に他国を振り回すことのない状態)
   ※江戸時代は、国内でほぼ自給できる経済基盤の上に管理貿易を行うことで成り立って
    いたよう。
  ⇒将来の日本社会は、江戸時代よりはるかに進んだテクノロジーと国内のあらゆる人的・
   物的資源をフル活用してその範囲内でやって行けるようになる。

 ・最終目標:「能力に応じて働き必要に応じて受け取る」共産主義社会の実現。どのような状
      況に生まれても全ての個人の幸福度が平等になるような社会

 ・最終目標に向けて生きている間に何が出来るのか?
  ・制約事項:能力・年齢・家族・時代状況・その他しがらみ等
  →まずは、自分自身を資本主義社会から出来るだけ解放し、可能な限り共産主義社会的な
   ライフスタイルを採用する≒資本主義に抗う

3 現在のライフスタイル ※2009年ぐらいから構想し2012年から実行
 ・暫定方針
   ① 可能な限り自給自足(とりあえず家庭菜園と年収100万円程度の生活)
   ② ①以外の時間を、社会問題の解決に充てる(取り組む問題は何でもあり)
     ※両親は公営住宅暮らしで生活保護より少し上の生活水準。ゆえに受け継ぐ財産は
      皆無
     ※体は少し弱め。独身
     ※フルタイム労働はこれまで4年間だけ。あとはパート労働。生活水準は大学進学以
      降不変

 ・現況
   ・収支
   ◆収入
    100万円
     ※週20時間弱労働(労働日は2~3日@週。パートは失業リスク分散の為二つかけもち
      (清掃とマンション管理員)。社会保険・健保はなしのため国保加入)
   ◆支出
    基本生活費(@月) 単位:円
     保険関係  6,500(生保・火災保険他)
     通信費    4,500(携帯1,500円、プロバイダー3,000円)
     食費     8,000(一食90円目安)
     家賃    20,000(河内長野ワンルーム最安物件の場合)
     電気     2,000
     ガス      2,500
     水道      2,000
     サプリメント 1,500
     医療費    9,000(国民健康保険料6,000円含む)
     土地維持費 1,500(年二回の草刈り時の交通費他)
     備品      3,000(家電等の更新費用)
     交通費    5,000(ほぼ活動関連)
     雑費     10,000(ほぼ活動関連)
     所得税等   1,000
     国民年金     0(全額免除申請)
     合計    76,500(年間918,000)
   ◆収入-支出 1,000,000-918,000=82,000円

 ・家庭菜園
  ・面積20㎡弱
  ・栽培している野菜(里芋・サツマイモ・人参・二十日大根・ホウレン草・チンゲン菜・エンドウ・
   モロッコ・ゴーヤー・キュウリ・ネギ・ニラ・オクラ)※他にお茶用にレモンバーム
   ※サツマイモ以外は自家採種、肥料は鶏糞、水も出来るだけ雨水利用なので費用はほぼ
   ゼロ

  ・避難用の原野
   三重県の某駅から徒歩30分の所に150坪の土地を100万円で購入(二人で共有。固定
   資産税はゼロ)。賃貸物件を追い出された時の避難用。ここで家庭菜園を試みるも獣害が
   ひどく断念

海南島での証言を聴いて  問う側から問われる側へ

2019年02月11日 | 海南島近現代史研究会
 以下は、おととい( 2019年2月9日)開催した海南島近現代史研究会第23回定例研究会(主題:証言、史料(文書・映像、音声、遺物、遺跡)での斉藤日出治の報告(海南島での証言を聴いて  問う側から問われる側へ)の要旨です。
 次回の海南島近現代史研究会第24回定例研究会・第13回総会は、今年8月24日に開催します。


■海南島での証言を聴いて  問う側から問われる側へ■
                               
1 <歴史研究>と<歴史実践>
 わたしたちは20年にわたって、海南島における日本の侵略犯罪についての証言を聴く活動を続けてきました。この活動は、日本の侵略犯罪に関する文書記録や証拠資料が意図的・組織的に隠されてしまっている状況のなかで、とりわけ重要な意義をもっています。証言者の証言を聴くことが、日本の侵略犯罪を示す最重要な証拠資料となっているからです。
 そのことの重要性を踏まえた上で、わたしたちがこの聞き取り作業を通して何を学ぶのかについて、あらためて考えてみたいと思います。
 歴史研究者が文書資料に依拠するのではなく、生身の人間の口述を聞き取り、その口述を手がかりとする研究の手法は「オーラル・ヒストリー(口述歴史)」と呼ばれます。この研究手法は1990年代以降注目されるようになりました。歴史研究では、文書資料の研究と口述歴史の研究が対比され、文書資料が存在しないか不十分なときにそれを補う意味で直接当事者から聞き取りをおこなう口述歴史の手法の意義が語られます。ただし、口述歴史は、話者の主観を交えるので、文書資料に比べて客観性に乏しいとも言われています。
 それでは、わたしたちが海南島で現地のかたがたから証言を聴く、という作業は、歴史研究者が「オーラル・ヒストリー」と呼んでいるものと同じ類いのものなのでしょうか。わたしたちの聞き取りの営みは、文書資料の研究も口述歴史の研究もふくめて、およそ歴史研究者がおこなう歴史研究とは異なる意味をもつものだということを考えてみたいと思います。
 わたしたちのこの営みを<歴史研究>と区別して<歴史実践>と呼びたいと思います。では、この両者はどのようにちがうのでしょうか。際だった違いは二つあります。
 一つは、<歴史研究>が、現在と切り離された過去の事実を記録することを主たる仕事とするのに対して、わたしたちの<歴史実践>は、現在の日々の営みであり、みずからの日常性を問い直し日常性に問いかける実践だ、ということです。<歴史研究>では、過去の事実の客観性は、現在から切り離される、ということによって保証されます。現在とは無関係に、過去の事実をそれ自体価値判断ぬきに考察するというのが実証主義的歴史研究の姿勢です。
 これに対して、わたしたちの<歴史実践>は、現在のわたしたちの日常性が過去の事実と向き合う、その向きあいかたによってつくりあげられていることを不断に問い続けます。ですから、歴史とは、過去のことではなく、過去と向き合う現在のありかたのことにほかなりません。その意味で、わたしたちは日々現在において歴史の営みを実践しているのです。歴史とは「歴史する」という日々の実践として位置づけるべきものなのです。
 わたしたちの日常の営みは、そのことごとくが「歴史する」という実践によってなりたっています。家族や友人と思い出話しをする、映画をみる、法事や追悼集会を催す、同窓会を開く、博物館を見学する、各地に旅行する、といった日々の営みのすべてが「歴史する」という行為です。
 したがって、そこから導き出される第二のちがいは、<歴史研究>において研究する主体が歴史研究者であるのに対して、<歴史実践>においては、「歴史する」主体が、この世に生きるすべてのひとびとだ、ということです。ここでも、歴史研究者と日常を生きるひとびとの「歴史する」営みのちがいが現われます。<歴史研究>の主体である歴史研究者は、記録文書であろうと、証言者であろうと、そのいずれをも歴史研究の素材であり対象とみなします。<歴史研究>においては、研究の主体と対象が厳格に分離されることが求められ、この分離によって歴史の客観性が保証されるものとみなされます。研究者はガラス張りの向こうある資料やひとに対して主観的な感情を移入したり、あるいは向こう側のひとから問いかけられたりすることをせずに、その資料や人を外部から観察します。
 これに対して、<歴史実践>においては、このガラス張りを取り払って、研究の主体と対象の関係を解体することが求められます。聞き取りをする側と口述をする側は、その両者の関係のありかたがあらためて問い直されます。<歴史実践>の主体とは、歴史研究者のような社会的・歴史的文脈から切り離された抽象的主体ではなく、「歴史する」営みにおいてかかわる他者との関係のなかでたえず自己の存在が問い直されるものなのです。
 したがって、歴史の史実の客観性は、現在の日々の営みや歴史する主体から分離された過去の事実によって保証されるのではなく、現在の日々の営みのあり方を問い直し、「歴史する」主体のありかたを問い直すことによってこそ、たしかに保証されるものとなっていくのです。

2 アボリジニの歴史実践
 わたしが<歴史研究>とは区別された<歴史実践>の意義について気がついたのは、保苅実『ラディカル・オーラル・ヒストリー-オーストラリア先住民アボリジニの歴史実践』(岩波現代文庫、2018年)に出会ったことがきっかけでした。保苅は、オーストラリア北西部のグリンジ・カントリーというアボリジニの村を訪問し、長期に滞在して、村の長老から聞き取りをします。
 そのとき、保苅は「オーラル・ヒストリ-」の研究手法に対して、重大な疑義を抱くようになります。「オーラル・ヒストリー」は、研究者があらかじめ質問事項を用意して村のひとにインタビューをしてその話しを記録するわけですが、インタビューされるひとは、その場合たんなる情報提供者であって、歴史を研究するのは、そこで提供された情報を収集し整理する歴史研究者のほうです。
 これに対して、保苅はアボリジニの村に長期に滞在し現地のひとびとと暮らしをともにすることによって、アボリジニのひとびとがたんなる情報提供者ではなく、歴史する主体であることに気づきます。そこで、保苅は「一緒に生活していく中で彼らが具体的に行っている歴史実践を一緒に経験していく。コミュニティに暮らす人々と一緒になって『歴史する』」(5頁)ことをこころみます。
 ここで保苅は、歴史する主体と対象との仕切りを、そして現在と過去との仕切りを取り払っていることがわかります。「オーラル・ヒストリー」に付与された「ラディカル」の意味はそこにあります。
 保苅が村で出会ったジミーじいさんは、白人によるオーストラリアの植民地史についてつぎのような歴史実践をします。ジミーじいさんは地べたにすわり、全身の五感を使ってものを見、物音を聞き、ものを感じ取ろうとします。そうすると、大地の底からドリーミングという精霊の姿があらわれ、その声が聞こえてくる。ドリーミングは動植物や人間を、地形を、谷や川を創造し、社会の規範=法を創造した祖先神です。だから、全身の五感を使うことによって、この精霊による世界の創造という過去の出来事が現在にもたらされる。ジミーじいさんは五感を研ぎ澄ますことによって、この「世界創造の記憶を保持」(74頁)し、歴史をメンテナンスしている。アボリジニのひとびとにとって、歴史とは、自分の身体が五感を通して知覚するものであり、過去を現在に呼び起こす営みなのです。
 アボリジニのひとびとにとっては、身体が知覚し呼び起こす「大地の法」にしたがって生きるのが正しい道です。ところが、白人の植民地主義者は、この大地の法に背いてオーストラリア大陸を侵犯しました。そのために、大地の法を犯した白人は大地によって懲罰を与えられることになります。白人が死んだのは、「法を犯したあの白人に大地が懲罰を与えたからだ」(13頁)。1924年に起きた洪水は、グリンジの長老のひとりが、「大蛇に大雨で[白人の]ウェーブ昼牧場を流すように依頼した」(17頁)ためである。
 このようなジミーじいさんの歴史の語りは、オーストラリアの歴史を実証主義的に研究する歴史研究者にとっておよそ史実としては承認しがたいことです。しかし、保苅は、このアボリジニの語りこそ、貴重な<歴史実践>として承認すべきだ、と言います。グリンジ・カントリーのひとびとは、そのようにして過去と向き合い、歴史をメンテナンスして現在の世界を作り上げている。それは植民地主義という「過去の出来事が現在にもたらされる」(56頁)正当な手続きであり、「実証主義とは異なる、もうひとつの経験論」(45頁)にほかならない、と。アボリジニのひとびとは、そのようにして日々歴史を実践することによって世界を創造し歴史をつくりあげているのです。

3 海南島における侵略犯罪の証言と日本人の<歴史実践>
 わたしたちが日本人として、つまりかつての植民地主義者であり侵略者であった者に属する人間として、海南島を訪問し日本の海南島侵略の犠牲となった被害者のかたがたから当時の証言を聴く行為は、歴史研究者による<歴史研究>ではなく、ひとつの<歴史実践>でなければならない。わたしたちは海南島での証言を「オーラル・ヒストリー」のようにいしてたんに過去の事実に関する知識や情報として聞き取るのではなく、「過去の出来事が現在にもたらされる」正当な手続きとして受け止める必要があるのではないか。それは証言者の声を聴く主体が証言者との関係において自己を問い直されることを意味します。

 1) 「聴いてどうする」?
 わたしたちが海南島の村を訪問して、日本軍が侵入した時代の話しを聴きたいと切り出すと、逆に、「聴いてどうする」と問いかけられることがしばしばあります。そのとき、わたしたちは「ここで聴いたことを、その事実を知らない日本のとくに若いひとたちに伝えたいのです」と答えます。村のひとが訪問した日本人に発するこの問いは、たんにインタビューの理由を説明する、といった次元を超えた、聴く者と聞かれる者とのあいだにある深い溝に対する問いかけでもあることをわたしたちは強く感じます。
 日本軍は村人を無差別に殺害し、日本軍のための過酷な労働に駆り立て、村の食糧や家財道具を奪い取り、女性に性暴力を振るいました。そのために、村人は自分の村に住むことさえできずに山中や各地に流浪を余儀なくされ、日本軍がいなくなった後も貧しく孤独な苦難の人生を強いられました。日本人は、この苦難を強いられたかたがたの苦悩を聞き取るとき、あらためて自分が日本人であることの自覚と内省を迫られます。つまり、証言をしそれを聴くという行為は、証言を聴く側と証言を話す側との関係のなかに、殺した側と殺された側との関係を、奪った側と奪われた側との関係を、犯した側と犯された側との関係を見いだすことを意味します。聞き手の日本人は、その関係のなかで改めて自分が日本人であることの意味を問われます。日本人は、殺した側、奪った側、犯した側に立つものとしての自己の存在を否が応でも気づかされます。証言を聴くとき、日本人は証言者の話をたんなる知識や情報として聴くのではなく、みずからの身体になかに侵略という日本人の行為を刻みつける経験をしているのです。

 2) 「あなたはこのことを信ずるか」?
 1945年4月12日(農歴3月1日)、瓊海市九曲江郷長仙村など九村が佐世保第八特別陸戦隊に襲われ、多数の村民が殺されました。とくに中原の燕嶺坡では、600人もの村民が1箇所で惨殺されました。日本軍は「良民証」を「験証」すると言って村人を集め、服を脱がせて裸にして並ばせたうえ、数人単位で殺害現場につれて行って、ひとりひとりを銃剣で刺し殺しました。銃剣を使ったのは、銃で殺害すると、村人に知れてしまうからです。遺体は村人に掘らせた穴に埋められました。まだ生きていて、「助けてくれ」といううめき声が聞こえたそうです。その600人が埋められた場所には、「三・一被難公塚」が建立されていて、その前で毎年農歴3月1日に追悼集会が開催されています。
 当時、そこに住んでいてかろうじて生き延びた曹靖さんは、生き残った村人から証言を聴き、『日本法西斯“三光”政策罪行録 回顧長仙聯村“三・一”血泪史』(2000年、初版)という書物を刊行しました。その抄訳が『海南島近現代史研究』第2・3号で紹介されています。
 曹靖さんはわたしたちを村人が殺害された現場に案内してくださり、当時の様子を詳しく話した後、私に向かってじっとわたしの眼を見つめ、「あなたはこのことを信ずるか」と問いかけました。わたしはこの言葉を聴いたとたんに、「ああ、自分は殺した側にいる人間なのだ」という思いがからだを貫きました。この言葉はたんなる事実を確認するための問いではありません。殺された側が殺した側にその関係を問う言葉なのです。自分がたんに日本人であるというのではなく、海南島で虐殺を行った集団であり、その集団の虐殺という過去の事実とのかかわりが現在を生きるわたしに問いかけられている、このことを突きつけられる問いでした。殺した側と殺された側との関係のなかに置かれ、その関係から逃げられない自己の存在を深いところから問われたという思いです。

むすび 日本の侵略犯罪を否認する歴史実践
 今日の日本社会で支配しているのは、わたしたちの<歴史実践>とは正反対の、侵略犯罪の事実を否認しその事実と向き合うことを回避する<歴史実践>です。
 侵略犯罪の事実が意図的に隠されたことによってこの<歴史実践>が正当化され、そのために侵略犯罪の事実の究明が押しとどめられるという悪循環が戦後日本の社会を支えてきたといえます。海南島における「朝鮮村」の朝鮮人虐殺も、旦場村、長仙聯村、月塘村の村民虐殺も、戦時性暴力も、強制労働も、略奪も、そのいっさいの事実が日本の社会ではなかったことにされているのです。
 日本政府は、この事実をあきらかにする責任を負っているにもかかわらず、事実をなかったことにし、その責任を回避し、被害者に対する謝罪も、賠償も、拒んでいます。そして日本政府のこの対応が日本社会における国家犯罪の否認を強化しています。わたしたちはこのような欺瞞に満ちた世界を生きているのです。
 そのために、日本の民衆は、戦前の植民地主義の意識を保持したまま過去の侵略犯罪を継承する<歴史実践>をいまもなおくりかえしています。1939年2月から1945年8月のあいだに海南島に侵入した日本軍兵士は、当時の体験を回想するときに、海南島での行動を「討伐」とか「掃討」と表現し、いまもなおそのことに何の疑問も抱きません。「討伐」とは悪い者を懲らしめる行為であり、「掃討」とは残らず一掃するという行為です。海南島で村々を襲撃し、村人を殺害し、性暴力を振るい、食糧や家財を奪い、ひとびとを奴隷労働にかりたてる行動が、戦後70年以上が経過した現在においてもなお、「悪い者をこらしめる」行為として、「残らず一掃する」行為として記憶され、受け止められているのです。
 この日本人の<歴史実践>と日本政府の責任回避の対応は相互に依存し合っています。
 わたしたちは、過去の事実と向き合う正当な手続きとしての<歴史実践>を着実に積み重ねていくことが求められているのです。