入浜権利を考える(9) 汚れる海
三菱製紙に来てもらうため結んだ、あまりにも一方的なに関する確約書でした。後々、町民は苦しむことになります。
そして、渚は死んだ
・・・製紙所が操業を開始して間もない明治34年6月15日、一人の農夫が町役場にどなりこんで来ました。
興奮のあまり何を言っているのかわからないのをなだめすかして聞くと、「三菱製紙所の悪水が流れこんで植えたばかりの稲が枯れた」といいます。
吏員が行ってみると三反にわたってまっ黄色に枯れていました。
三菱は、潮の逆流による塩分から枯れたのだと主張しました。が、農民は排水中止を要求しました。
三菱は、高砂とかわした確約書をたてに、藍屋町と高瀬町の間の溝を通して東浜町の堀川港内へ放出することにしました。
これに対して、今度は漁民がだまっていません。
「堀川の水は彼らの生活用水だ」というので、5・60名の漁師が役場に押しかけました。
農民と漁民の問に立たされた町当局は困りはて、東農人町裏から荒井村との境の大木曽水路まで、700間の新排水路を町費で構築することにしました。
三菱は費用の負担を申し出ました。*地図の赤線が廃水路
さて、降って湧いた排水路問題に、荒井村は当然拒否の態度を示したが、服部兵庫県知事は強引に工事許可を出し、突貫工事にかかりました。
そのすぐ後、ことごとく三菱の側に立って事をすすめて来た町議・杉本鶴太郎(仮名)と三菱社員一人は、工事現場を見まわり中、荒井村村民に襲撃されて負傷する事件がおこったのです。
その夜、(たぶん7月18日)鋤鍬を手にした荒井村民300名が高砂町におしよせ、もはや、町の手には負えぬと見た三菱は神戸から屈強の人夫約50名を連れて来て、警察官70名の護衛のもとに工事を遂行完成させました。
この時できた三菱製紙排水路は、その後、町の中を開渠(後に暗渠)で貫流しました。
この排水路こそ、昭和39年7月から開始したノーカーボン紙の生産にともなうPCB汚染水を流し続け、高砂の海を汚した原因の一つとなったのです。
*海岸の流れは西から東に流れており、PCBは高砂の浜に運ばれ沈殿しました。
ところで、悪水を港内に放流されそうになって反対運動に決起した漁民・500名は反対の態度を表明したが、結果的には魚介不漁に対する見舞金として漁業組合に三菱から2.500円寄付を受けるということでけりがつきました。
これは日本における、企業からの漁業補償のおそらく最初のものでしょう。
この時も、例の杉本鶴太郎(仮名)が仲介し立会人となって根回し、一部の人達だけが利益を得ることになりました。
そして、乱獲のこともあってか、昭和24・5年頃から貝が減少してきた。
その頃から、貝の養殖場の水ぎわから2・30メートルに及んで砂地がドロドロになって足の指の間からヌルヌルとはみだしてくるし、一種の異臭がただよい始めてきました。(no5008)
*『渚と日本人(入浜権の背景)』(NHKブック)参照
*地図:赤線・三菱製紙の排水路(『渚と日本人』より)