最近、散歩に凝っており、散歩中に見つけたこと(考えたことを)を書いていますが、2010年4月1日のブログ、「オマーン国王夫人・稲美町に眠る」の記事になぜかアクセスが多くなっています。
そのため、今日は、カテゴリー「散歩をしましょう」の続きとして、再度この話題を掲載しておきます。
オマーン国王夫人
県立東播磨高校のすぐ東の高堀を調べました。横の墓地の「オマーン国王夫人」の墓碑にお参りしましょう。
*墓碑の国名は「オーマン」となっています。
オマーンの歴史
オマーンはブ・サイド家が支配するイスラム教の国で、アラビア半島の東南端の一角に位置し、面積は日本の4分の3ほどの小さい国です。
ホルムズ海峡に続くオマーン湾やアラビア海に面したオマーンは、古くからインド・アフリカ東海岸諸国との貿易の要衝でした。
オマーンは、イスラム教を中心としていますが、スンニ派やシーア派でもなくイバーディ派と呼ばれる宗教が国民の多数を占めてします。
イバーディ派は、指導者を世襲としていません。
そのことはよいことなのですが、新しい指導者の出現には、しばしば混乱と分裂を招きました。
オマーンは、衰え1507~1649年までポルトガルに支配されました。
オマーンが、再度統一を回復したのは1749年のアハマド・ビン・サイードによってでした。
しかし、サイード国王の死後、オマーンは再び衰え、国王のタイムールは息子のサイードに追放され(1932)、1965年にインドのボンベイで客死するまで30年余をアジア各国で過ごしています。
タイムールは一時、日本にも滞在し、そのとき日本女性との間に女の子をもうけます。ブサイマ王女です。
その後、父親を追放して第7代国王となったサイード(在位1932~70)は、イギリスとの通商条約を結び、イギリスを後ろ盾に父・タイムール旧勢力と対峙しました。
その後も争いは絶えませんでした。
1970年、サイード国王の息子のカブースは父を退位させ第8代国王に即位しました。
なお、父親のサイードは追放された2年後ロンドンで亡くなっています。
オマーン国王夫人・稲美町の墓地に眠る
息子に追放されたタイムール国王は一時、日本にも滞在し、その時日本女性との間にブサイマ女王を出産します。
この日本女性は稲美町の方で、墓碑(写真)が県立東播磨高等学校前の墓地にあります。
数年前、ブサイマ女王が母の墓参にこられたということを聞きました。
話してくださった方は亡くなられ、当時の詳細はわかりません。
さらに、オマーン国王について知りたいのですが、詳細をお知りの方はお知らせください。
<墓碑>
南面 昭和拾四年拾壱月拾日卒
前オーマン国王夫人 清子アルサイド
享年二十三歳
東面 昭和拾五年五月
タイムルFファイサム・アルサイド建之 (no3730)
*地図:オマーンを示す地図、写真:オマーン国王の墓碑
◇きのう(9/24)の散歩(11.758歩)