写真は、円照寺に伝わる蓮如上人の御真影。寛政元年(1789)本願寺よりいただいた御真影です。
闇の時代
蓮如は、その後、あまり歴史に登場しません。はっきりと分からないのです。
そんな蓮如でしたが、28歳の時結婚し、次々と7人(男4人・女3人)の子供をもうけました。
しかし、貧しい当時の本願寺で家督を継いでいない身では子供を育てることはできません。
幼い子を里子に出したり、よその寺に使用人としてあずかってもらうより方法がありませんでした。
不憫でした、6歳で、実母と別離した自分の人生と重なるのでした。
蓮如が43歳の時でした。父が亡くなります。本願寺の相続について内部の争いがありましたが、奇跡的に蓮如が継ぐことになりました。
そして、47歳の時、いわゆる「寛正(かんしょう)の大飢饉(1461)」を経験します。正月~2月の二か月間だけで京都の餓死者が82.000人にものぼったと言われています。
多くの百姓は、天を呪いました。生きる希望をなくしました。
多くの人々は迷信、占いそして怪しげな祈とうに走りました。
親鸞の「阿弥陀、一心にすがり、ナムアミダブツを唱えなさい・・・」という教えは、むなしい響きにさえ聞こえるのでした。
堅田衆の援助
そんな時に、今の大津あたりですが、堅田(かただ)の門徒・法住(ほうじゅう)に出会いました。彼は、蓮如の考えに共鳴します。
堅田衆は、当時の交通・通運の要衝である琵琶湖の漁業権及び交通をほとんど握っているグループで、法住は、その堅田衆の指導者です。
堅田衆には農漁民以外の職人、商人や馬借、車借などの運送業など当時の社会では一種の偏見を持ってあつかわれていた人々も含んでいました。
蓮如は、そんな堅田衆の援助を得ることができました。
堅田衆としても比叡山(天台宗)と対立しており、精神的な柱を蓮如(浄土真宗)に求めたのでしょう。
たちまち、比叡山からの非難が起きました。京都の本願寺は、比叡山のために打ち壊されてしまいまいた。
そんなことに負ける蓮如さんではありません。
蓮如の見つめる人々は、一揆をおこし動乱の時代の新しい担い手になりつつある農民や底辺の人々でした。
「時代は動いている・・・」
「私(蓮如)は、これらの人々と一緒新しい信仰(時代)を広めてゆこう」と決意するのでした。(no3288)
*写真:円照寺に伝わる蓮如上人の御真影(部分)