きょうの高砂の漁業は、今井修平先生の書かれた「たかさご史話(49」」をお借りしました。(文章を少しだけ変えています)
高砂の漁業
高砂では漁業も盛んでした。
安永2年(1773)の高砂町の明細帳には「漁船118艘・船持115人、曳網船25艘・船持20人」とあります。
また、町名にも漁師町、釣舟町、狩網町があって.それぞれ51世帯202人、111世帯、435人、68世帯296人が住んでいました。
漁船の数からいえば、その大部分が漁業で生活していたといえるでしよう。
そのほかにも、魚町91世帯341人がありました。
その全では無いでしょうが魚問屋や生魚や塩干魚を加工・販売する商人も多く住んでいたと思われます。
漁業権
姫路藩主が参勤交替で国元に在住している年には高砂の町中として塩鯛10枚を歳暮として献上する習わしがありました。
それは姫路藩から高砂に対して漁業権が認められていたことへの謝礼の意味がありました。
それとは別に、毎年、高砂漁師から塩鯛420枚、塩鰆100本、干鱧300本を献上する替わりに、それぞれ銀336匁、150匁、10匁5分が上納されていました。
これらも、漁師たちか漁案権を認められることに対するお礼の献上物であったものが、安永2年の段階ではすでに金納となっており、営業税的な性格に変わっていたと考えられます。
また、網を用いる漁業に対して営業艦札が発行されており、これらにも銀納で運上銀が課されています。
その他に、川漁師にも同様に運上銀を課しています。
播磨離の海域には岡山や摂津(神戸方面)からも漁師が入り込みますので、姫略藩としては高砂、飾磨を始めとする領内漁村の漁師を保護するとともに、領外への漁獲物の叛売を制限して城下町姫賂を中心に領内の食科資源を確保する政策をとっています。(no2879)
*「たかさご史話(49)・高砂の漁業」参照
*地図:高砂周辺の主要漁村と高砂の諸漁場(『高砂市史第二巻』)より
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