ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

さんぽ(139):播磨町を歩く(20) ジョセフ・ヒコ物語(17)、新聞の父③・新聞をつくろう

2014-05-27 00:21:26 | 播磨町

  アメリカの新聞事情
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 ヒコは、漂流してアメリカ船に救出されサンフランシスコで、初めて新聞というものを眼にした。
 その後、アメリカ在住中、ワシントン、ニューヨークのような大都市のみではなく地方の町にも新聞社があって、記者が取材にあたり、記事が印刷されて発行されているのも知った。
 新聞は、あらゆる階層の人々の間にひろく浸透していて、アメリカ人の生活になくてはならないものになっていた。
 サンフランシスコで発行されている新聞には、港に出入りする船の名、時刻、主要な船客名をはじめ、陸揚げされた物品の市場での動きや価格も記されていた。
 横浜の外人居留地には、アメリカ、イギリスの新聞社から派遣された記者たちが常駐し、本社から送られてくる新聞の記事を紹介するとともに、日本国内の動きも取材して、記事にしている。
   
新聞をつくろう!
 アメリカとは異なって、日本に新聞に類するものは皆無で、ヒコはあらためて不自然に思った。
 日本人が知る情報は、口から口に伝わるものに限られ、当然のことながら誤報も多い。
 そのため、幕府はもとより各藩は探索の者を四方八方に放ち、豪商も人を派して正確な情報を得ることにつとめている。
 もしも、新聞があって正確な記事をのせれば、世界、国内の情勢を人々に伝えることができる。
 その和訳文を文字に託し、それを新聞の記事として発行すれば、かれらはもとより多くの者を益するはずであった。
 ヒコは、語学力を活用して日本人を啓蒙することができれば、国家的な意義は大きい。<o:p></o:p>

 新聞をつくってみようか、と思った。
 
*『アメリカ彦蔵(吉村昭)』(読売新聞社)参照<o:p></o:p>

 *写真:新聞の父・浜田彦蔵の碑(播磨小学校敷地内)<o:p></o:p>

 

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