ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

志方町を歩く(233):石棺二尊石仏(志方皿池)

2012-02-28 07:21:34 |  ・加古川市志方町

志方皿池 石棺二尊石仏

025この石仏は、原・志方町・投松を東西の道と南からの北へと抜ける交差点の所に皿池がありますが、その皿池の南西隅にあります。

石仏の安置されている場所は幹線に近いのですが、少しだけ道から離れているためか、ここに見事な石仏があることをご存知の方は少ないようです。

一度、お訪ねください。

 この石棺二尊石について説明(板)がありますので読んでおきます。

「石棺の上半に高さ30cmの阿弥陀仏と地蔵菩薩の坐像を彫こんでいます。

石棺は高さ(地上部分)80cm、下部99cm、上部の幅67cmです。

室町時代前期に彫られたものと考えられ、均整がとれて気品のある石仏としては志方随一といわれています。

    平成133月 加古川市教育委員会」

 『志方町誌』は、以上の説明の外に「もともとここに祀られたものであろう」と付け加えています。

    祖先の供養と来世の安寧を願ったのか?

この石仏について、以下の文は蛇足です。

勝手な想像ですから読み飛ばしていただいて結構です。

まず、このような見事な石仏は個人のものではないと思われます。

室町時代までの一般的に百姓は貧しく、個人でこんな立派な石仏をつくることはできなかったと考えるのが普通です。

それに、室町時代は、天変地変に見舞われた時代でした。

志方地方も例外でなかったはずです。

そんな時は、百姓たちは、阿弥陀仏や地蔵様に必死にお願いをするより外に方法がありませんでした。

それでも、多くの人々の命は失しなわれたのでしょう。

人々は、そんな苦境を和らげるために、そして来世での安寧を願い、祖先の供養のために村全体で阿弥陀像と地蔵像を造立したものと想像するのです。

 室町時代の、このあたりの人々の絆と必死さを感じるのです。

像が阿弥陀さんであり地蔵さんであるので、よけいにそんな想像をしてしまいます。

 ところで、この石仏と皿池との関係があるのでしょうか。皿池の歴史を知りたい・・・・

コメント
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