ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

加古川町平野・美乃利探検(18) (沼田家文書1) 間形村由来書送り之事 

2021-05-28 07:34:53 | 加古川町平野・美乃利探検

    間形村由来書送り之事

 間形の沼田家のご祖は加古新村の方で、沼田家に伝わる文書「間形村由来書送り之事」(写真)があります。

 今回は、その内容(口語訳)の紹介をさせていただきます。

 *文書の口語訳は、内容が理解しやすいようにしたため、完全な直訳ではありません。

       間形村由来書送り之事(口語訳)

 間形村というのは、溝之口村の枝村ですが、溝之口村に家があるばかりで、間形の地には家が一軒もありませんでした。

 姫路藩主・榊原式部守(政岑)の時代、元文元年(一七三六)に、七五石一斗五升が「上がり地」となり、次の年の二月十八日に残りの三一五石五升の全てが「上がり地・あがちち」となり、取り上げられました。

   *注、「上がり地」・・・藩や幕府に召し上げられた土地

 その土地は、上西条の大庄屋・沼田直次郎と加古新村庄屋・(沼田)九郎太夫に下げ渡しとなりました。

 間形村の免相(めんあい・税率のこと)は、六割六分だったものを「一つ」減じて五割六分となりました。

 当時、平野村の兵左衛門が間形村の庄屋を兼ねていましたが、同年三月二十六日に、天王寺村(現、野口町良野)の庄屋・甚五郎が間形村の庄屋を兼ねることになりました。

 しかし、それでも間形村の生産は安定しません。

 延享三年(一七四六)に「間形の免相(年貢率)を三割に減らしてほしい、そして枝村ではなく、独立した間形村として認めてほしい」と藩主・松平明矩(まつだいらあきのり)に願い出たところ、なんとこれが認められたのです。

 寛延元年(一七四八)十一月十七日、姫路藩主・大和守明矩様は亡くなられました。

 これによって、毎年十一月十七日の命日には、間形村の大恩人の明矩様に感謝して、村役人宅に集まり、その遺徳をしのび位牌を拝むことを決めました。

 このように、大和守様(松平明矩)の遺徳をおろそかにせず、いつまでも守るように。

    寛延元年(一七四八)十二月 

 加古郡間形村  九郎太夫

この事を、今後も末永く村中へ折々読み聞かせるように。  

              西条組大庄屋  直次郎

   右証                       (no5097

 *写真:間形村由来書送り之事(文書の一部)

 

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