高砂神社で足踏みが続きました。高砂神社にはついては後日また続けますが、この辺りで次の話題に移ります。
高砂町には、江戸時代の町割りが、そのまま残されています。おもしろい町名がたくさんあります。
そして、街角には説明板があり、それを参考にしの町巡りも面白いですよ。
右上の写真の説明板は次郎助町の説明です。
さっそく、次郎助町の散策をしましょう。
次郎助町は、かつての歓楽街(花街)
次郎助町には、かつては遊郭やお茶屋などでにぎわい栄えた、いわゆる花街がありました。
地名の由来も、伝承では「女郎」が「次郎」に転訛したものだといいます。
かつて、次郎助町は、遊郭やお茶屋などでにぎわい栄えた、いわゆる花街でした。
古来、港町には遊郭がつきものでしたが、高砂の場合、近世(江戸時代)の港と町場がつくられてから後ではないかと思われます。
明治以後、文明開化政策の一環として、公娼制度の廃止が検討されてから、歌舞の技で宴席に興を添える芸妓が高砂の町にも増えたといいいます。
昭和2年、高砂実業協会発行の「高砂案内」によると、芸妓置屋業と並んで松鶴楼、相生楼、高砂楼、陽気楼といった妓楼の名がみえ、高砂町場内随一の歓楽街だった様子がわかります。
こうしたにぎわいを見せた町も、売春防止法が施行された後の昭和33年に妓楼がすべて廃業し、商店やアパート経営に変わって、かつての賑わいを見せた町も、売春防止法が施行された後の昭和33年に妓楼がすべて廃業し、商店やアパート経営に変わって、かつての面影はほとんどなくなりました。
ただ、通りに面した稲荷社である光守神社(みつもりじんじゃ)の玉垣の一つに「高砂芸妓組合事務所」、もう一つに「高砂料理屋組合」とあるのが往事の華やかさをしのばせるのみです。(no2822)
*『地名でたどる小さな歴史Ⅱ』(神戸新聞)総合出版センター
*写真上:町の説明板
写真下:「高砂芸妓組合」の玉垣
あのあたりは昔のにおいがしていいところです。