昭和19年2月初めのころ、相野の地主は突如陸軍から集められ、その時初めて飛行場建設の話を耳にしました。
そして、1ヵ月以内に立ち退くよう、命令が出されました。
相手は「なく子も黙る陸軍」です。
命令は絶対的で、土地の買収も強制的に行われました。
母里村・別所村(三木市)、あわわせて30戸、寺1、ため池7、それに多くの田畑・山林で、面積にすると199町5畝3歩(約197ヘクタール)でした。
それが、44万5818円で買い上げられました。
2月12日に山林伐採から飛行場建設が始まりました。
相野飛行場滑走路
(地図は、ダブルクリックすると拡大します)
地図は国土地理院の50.000分の1の地図(平成9年)です。
天満大池が目印になり、だいたいの場所はお分かりになると思います。
その地図上に「旧飛行場」の文字を見つけてください。
この部分は、「中央池」を挟んで、左上から南東に短冊のように伸びた地形です。
一目でわかると思いますが、ここは、かつての飛行場の滑走路に当たる部分です。
中央池の北の道を歩いてみました。
他の台地上の田畑とは異なり、バリアフリー状とはいかないまでも起伏がすくないのです。
まさしく、ここに飛行場の滑走路があったことがわかります。
写真は、中央池の土手から北西方向の風景を撮った写真です。
なお、中央池の北側の道の一部は、現在稲美町と三木市の境界ともなっています。
中央池は、三木市に属しています。
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