前号で古代における、加古川・高砂地域はボーダーの地域であることを紹介しました、
今日は、その例を戦国時代の神吉城・三木城にみましょう。
「上杉謙信動く」の報
天正六年(1578)、三月四日。 三木の別所長治は、神吉頼定ら東播磨の主だった領主を三木城に招集しました。
上杉謙信か上洛し、大坂の本願寺、そして毛利軍と共に信長軍に対抗するとなると、勝敗の行方は、俄然毛利軍に有利となりました。
速報! 上杉謙信の出立つは、 (天正六年)3月15日
三木城での軍議の最中、緊急の情報がもたらされました。
内容はこうです。
「顕如上人から緊急、且つ重大な知らせが届いた。十一日後の(天正六年)三月十五日、上杉の軍勢は、越後を発し、信長討伐に向かう」とのことでした。
神吉へも、石山本願寺より同内容の知らせが届きました。
神吉城、毛利の味方に
神吉の重臣は、神吉城の広間に集められました。
頼定は、静かに結論から話し始めます。
「・・・我らは、織田の絆から離れ、毛利に寄騎(味方)する・・・」
頼定は、東播磨を取り巻く情勢を説明しました。
家臣たちは、まんじりともせず聞き入りました。
はっきりと、信長・秀吉側に反旗を翻しました。もはや、後戻りはできません。
天正六年(1578)三月五日、芸州の毛利と大坂の石山本願寺へ急使をおくりました。
天正六年三月十三日、上杉謙信死す!
歴史は、時々非情な物語を準備します。
上杉謙信、天正六年三月十三日、享年四十九才で急死しました。
死因は脳卒中であったといいます。
三月十八日に、謙信の死は石山本願寺にも、神吉にも伝えられました。
たちまち、このニュースは、日本国中を駈けめぐりました。
神吉頼定は、愕然としました。
上杉謙信、石山本願寺、そして毛利の信長包囲網があっての決断でした。
その一角が、ガラガラと音を立てて崩れ去ったのです。
三木・神吉城主ばかりではありません。東播磨の領主(人々)は、みな情勢に翻弄されたのでした。(no3499)
* 写真:加古川地域の諸城が西の毛利側につくか、東の信長側につくかの加古川評定が行われた加古川城跡に建つ称名寺
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