前号で書いたように、数字や情勢から判断すると、「志方城の戦いはなかった」と結論づけられても仕方がない。
「志方城の戦いがあった」とする理由は、次のようである。
浄土真宗
播磨地域の特色をみておきたい。
播磨は、浄土真宗(門徒)の影響が強い地域である。
門徒衆(浄土真宗の信者)は、いきおい「主君と自分とは現世だけの契りであるが阿弥如来との契りは未来永劫の契りである。主君よりも信仰の方が大切である」と考える。
このあたりの感覚は、現代人から判断できない。城主としても、そんな門徒衆を無視することはできない。
もし、信長方に味方するとすれば、門徒衆をはじめ領民の支持を一挙に失う。
その門徒衆の心の支えである石山本願寺は、信長軍と壮烈な戦いをしている。志方地域からも多くの者が本願寺の支援に出かけている。
門徒衆にとって信長は、まさに仏敵・悪魔であり、領主が信長方に味方をすることを認めようとしない。
また、志方城の多くの家臣たちも三木城を支援しており、志方城からも三木城に籠城したものも多い。
信長は仏敵、そして非人情である
また、三木別所が信長・秀吉に味方できなかった理由は、計算だけで成りたっている信長その人にもあった。
信長は、他に対して非人情のかたまりのような人物であった。
信長は、同盟した者を徹底的に道具のようにつかった。そして、役に立たないとなれば、ボロ布のように捨て、時には殺害した。
播磨の領主は、こんな役割を演じさせられるぐらいなら、毛利軍と同盟して信長軍と一戦を交えた方がましであると考えたのも当然であったのかもしれない。
志方城は官兵衛からの働きかけが
志方城の場合、娘の夫・官兵衛から「信長方に味方をするように」との説得はあったのは確である。
しかし、取り巻く情勢は、最初から戦わず信長側につく雰囲気にはなかった。
城主としては、一戦を交えて、目前に敗け戦が確実になった段階で、はじめて投降できたのである。「信長軍と戦った」という面目がたった。
この段階では、城兵としても、敗者としてすべてを失い世に漂って生きるより、武士にとって最大の価値観である「家の存続」を選択したのであろう。
*写真:志方町観音寺(志方城跡)に残る志方城の石垣の一部(昭和48年ごろ撮影)
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