*美濃部達吉については、後に取り上げますが、ここでは達吉の父・秋芳(しゅうほう)について『高砂市史(第二巻)』より、少し紹介しておきます。
美濃部秀芳は、申義堂の教授でした。
美濃部秀芳(美濃部達吉の父)
美濃部秀芳(美濃部達吉の父)は、文久三年から申義堂で素読を担当しました。
彼は、天保二十一年(1841)八月二十四日に生れで、父は高砂でただ一人の蘭方医の美濃部秀軒でした。
秀軒の妻・秀芳の母は、申義堂教授であった三浦松石の娘であり、秀芳と申義堂との関係は深く、秀芳も申義堂で学んだにちがいありません。
父・秀軒は、加東郡三草村の蘭方医西山静斎と深い交遊をもつ人で、蘭学に通じた人でした。
また、漢学の素養も有し、儒医三浦松石とも高砂の町医として協力しあっていました。
嘉永三年(1850)正月に、二人はともに緒方洪庵の主幸する大坂除痘館にかかわり、早くから種痘普及に協力して携わっていました。
秀軒は、秀芳にも蘭医学を身につけさせようと、西山静斎に入門させています。
なお、秀芳の妻も加東郡古川村(小野市)の儒医井上謙斎の娘で、謙斎は文政8年(1825)に学塾を開設し、明治五年(1872)まで医業の傍ら儒学をも教えた人でした。
秀芳は、生れて以後、儒学や医学に携わる人たちに囲まれて過したといえます。
したがって、秀芳が、申義堂の最後を飾ることになるのは自然な流れでした。
この秀芳が加東郡社村(加東市)で行なった講義の筆録が残されています。
この講義は、同村の佐保神社神官の筆記にかかるもので、おそらく同神社において行われたものでしょう。
申義堂での講義のありようを彷彿(ほうふつ)させるものなのですがここでは省略させていただきます。
詳しくは『高砂市史(第二巻)・通史編近世』(p697~9)をご覧ください。
*『高砂市史(第二巻)通史編近世』参照
*写真:美濃部秀芳
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