ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

志方町を歩く(273):西中③・西中の誕生は志方城落城(天正6・1576)後

2012-05-13 12:20:38 |  ・加古川市志方町

004    

   西中のルーツ

宮谷から移住した人が最初に住みついたのは中の池の西の岸上畑付近で開墾に着手したものと思われます。

その後、耕地が南へのびるにつれて住居も現在の西中の地へ行ったものであろう。

その間の事情について復習をしておきます。

   

  西中の誕生は志方城落城後

当時、志方城士や助永構居の士卒の幾人かは、大藤山南方の平地を、耕作していたことでしょう。

そのため、岸上畑に移住したに住民は、その勢力のため南の平野部への進出は難しかったようです。

やがて、志方城は天正6年(1578)、三木の合戦で秀吉方に敵対し落城しました。

志方から櫛橋氏の勢力は一挙に消滅します。

宮山から出て、岸上畑を開いた人々は、さらに南方の平野部への進出が可能になりました。

さらに、宍粟郡広瀬郷から広瀬一族がこの地に移住して来たのもこの頃でしょう。

当時、勝利方の黒田官兵衛は、宍粟郡・山崎城(四万石)の大名でした。

官兵衛の夫人は、志方城主櫛橋氏の娘でした。

そのため、山崎方面から西中への移住があったようです。

ですから、西中は志方城落城後に誕生した集落と考えられます。

参考に明治4010月現在の西中の戸数と姓を挙げてみよう。

広瀬20、陰山14、安田8、石原6、萩原5・高田3・石田3、井上2、高橋1、前川1、金沢1、計64

   

   西中の名称

なお、「西中」集落の村名は天神山の東側にある「東中」にたいして、西中は西側にあるところからつけられました名称です。

*宮谷から西中にかけて内容がずいぶん重複しています。ご了承ください。

*写真:西中にある「大神宮」

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 志方町を歩く(272):西... | トップ | 志方町を歩く(274):西... »

コメントを投稿