ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

高砂市を歩く(75) 山幡桃片物語(10) 時代の先を読んだ思想

2014-12-01 10:31:38 |  ・高砂市米田町

    幡桃を生んだ風土

  ここでも、司馬遼太郎の文章をお借りしたい。

 ・・・

 幡桃を思うとき、十七、八世紀の大坂というものを思わざるをえない。

 蟠桃は、津軽弘前や薩摩鹿児島といった封建制の濃密な城下町では成立しにくいのである。

 いまの大阪は、十七、八世紀の文化的栄光の余慶をうけている。

 十七、八世紀といえば、文学においては井原西鶴と近松門左衛門で象徴される時代だが、日本において独自に興った人文科学的思考者のむれもまた大坂においてむらがり出た。

 山片蟠桃賞は、そういう栄光の時代の大坂の象徴として名称に蟠桃の名が冠せられたのである。

    時代の先を読んだ思想

 しかし、もし彼の思想を少しでも掘りさげれば将軍・大名といった権威への否定あるいは破砕におよびかねないものなのであった。

 しかし、蟠桃は時代の限界を知っていた。

 このことは、彼の思想の"限界"などという書生論で論ずべきものではない。

 かれは、一介の町人ながら、意識は天下に責任をもった士大夫であった。

この精神の構造は、懐徳堂の中井竹山、履軒を通じてみずから構築した儒学的なものといっていい。

 さらにいうと、蟠桃がたずさわった経済は、コメをカネにするという経済だった。そのためにはコメをつくる農民の管理者である将軍、大名をみとめざるをえなかった。

 ・・・・

 蟠桃思想は一部には知られていたが、彼の『夢の代』を一般には公表しなかった。

 あまりにも時代を飛び越えていたことを彼自身よく知っていた。

 一般的に知られるようになったのは、明治以降である。

 もし、幕府からお叱りを受けたな時には、彼は「私は、しがない番頭(ばんとう)の一人です」と逃げたのかもしれない。

 蟠桃(ばんとう)は、大いなるユーモラリストであったのだろう。

       

 高砂が生んだ巨人・山片蟠桃については、さらに詳しく述べなくてはならないのですが、勉強不足です。荷が重すぎます。

 さいわい、高砂出身の木村剛久しが『蟠桃の夢』で、蟠桃をまとめておられます。詳しくはそれをお読みください。

 *『十六の話(司馬遼太郎著)』(中央公論社)参照

 *写真:「山片蟠桃」結婚記念に寄進した燈籠(米田町神爪)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 高砂市を歩く(74) 山片蟠... | トップ | 高砂市を歩く(76) Bannt... »

コメントを投稿