ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

工楽松右衛門物語(75):鞆の湊づくり

2013-10-10 07:00:59 | 工楽松右衛門

 

「工楽松右衛門物語」は、詳細を知りたかった工楽松右衛門を、手じかにあるご研究や小説でまとめている。おわりに、近くなった。<o:p></o:p>

 

松右衛門の最後の仕事となった「鞆の湊づくり」を紹介しておかねばならない。<o:p></o:p>

 

吉田登氏の「帆布の発明者・工楽松右衛門」の研究をおかりした。<o:p></o:p>

 

後日、もう少し調べて、まとまった読み物にまとめ紹介したい。<o:p></o:p>

 

今年は夏が頑張っているが、10月中にでも松右衛門の最後の仕事場「鞆」行ってみたい。<o:p></o:p>

 

そして、余話として「鞆散策」を書いてみたい。<o:p></o:p>

 

 「鞆」の湊づくり・松右衛門の最後の仕事<o:p></o:p>

 

Photo
 松右衛門は、高砂湊をあらかた終えた。<o:p></o:p>

 

体調を崩したが、文化八年(1811)、松右衛門69才のとき、福山藩主阿部候から姫路藩主酒井候を通じて、鞆の浦の防波堤の修築と延伸の依頼があった。<o:p></o:p>

 

松右衛門は、体調を押して現地に赴き、実態調査し築提計画をたてた。<o:p></o:p>

 

そして、工事に使用する花崗岩の巨石を遠近の島々から集めた。<o:p></o:p>

 

彼が開発した「石釣船」を駆使し、工事は10カ月ほどかかった。文化九年(1812)に竣工した。<o:p></o:p>

 

  備後の漢詩人・菅茶山(17481827)は、詩集等で、当時の鞆浦のようすと、阿部候と工楽松右衛門の、その功績を後世に伝えている。<o:p></o:p>

 

 松右衛門逝く<o:p></o:p>

 


 文化八年(1811)の「中村家日記」には、藩主の許可を得て、「私儀此度、工楽松右衛門為迎播州高砂江罷登船中之外五日逗留仕度奉願上候」とある。<o:p></o:p>

 

(私はこの度、松右衛門へ湊の工事依頼のため播州高砂へ5日間ほどまいります。よろしくお願いします・・)<o:p></o:p>

 

中村家が、播州高砂までわざわざ迎えに行っているが、このことは鞆の浦のさらなる発展のGanngiため豪商中村家が、港普請の先頭に立ったことを示している。<o:p></o:p>

 

「輔の浦歴史民俗資料館」の企画部長をされ、また「中村家古文審」の解明に関わっておられる池田一彦氏は、松右衛門が改修した施設は、大可島波止場・、中央船着場雁木(がんぎ)、焚場(たでば)のほか川口(土砂崩れ防止)など全域に関与しているという。<o:p></o:p>

 

鞆港の工事は、松右衛門は老齢で病躯ながら頼まれた公益のために、全エネルギーの投入と自ら開発した多種の作業船を駆使した「港づくり」の集大成の事業であった。<o:p></o:p>

 

翌年、松右衛門の病状は悪化し、文化九年(1822)なくなった。八月の暑い日であった。<o:p></o:p>

 

 *「帆布の発明者・工楽松右衛門」(吉田登)参照<o:p></o:p>

 

 *写真上:松右衛門が修築・伸延した大可島波止場<o:p></o:p>

 

  写真下:中央船着場<o:p></o:p>

 

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