「三田文学」に評論を発表
大正4年の半ばを過ぎた頃でした。
その頃周太郎の身辺は俄かにあわただしくなってきました。それは慶応塾の文科(現文学部)の三年生という最高 学年になったため、その機関紙「三田文学」の再建という重責が身にかかってきたためでした。
その頃、東京帝大の「帝国文学」、早稲田の「早稲田文学」が盛んに活動をしていました。
慶応の「三田文学」は、慶応出身の文士達の文筆活動の基盤でしたが、それまでに相当の期間休刊になっていたのを、建て直しが関係者らによって企画されました。
周太郎をはじめ、三年生の面々は、どうしても何か書かねばならない立場になりました。
この頃の「三田文学」には水上瀧太郎がいました。
瀧太郎は、明治20年の生れだから周太郎より5つ年上で、この人は、日曜作家の第一号ともいわれる程の特異な存在でした。
瀧太郎は東京のブルジョアの子息で、本名を阿部章蔵といって、その父泰造は「明治生命」の創立者であり、かつオーナーでした。
慶応を出たエリートの青年瀧太郎は、評論・創作をせっせと書いて発表するかたわら、塾のOBとして後輩の指導にも熱心で、小石川にあった広大な自邸を文士達の集いの場に開放していました。
主宰した「水曜会」には三田派ばかりでなく、 「早稲田」グループの井伏鱒二、丹羽文雄、石川達三らまで顔をみせていました。
そして、父の会社に入り「明治生命」の専務取締役や毎日新聞社の取締役を兼ねていました。
水上瀧太郎から、「おい三宅、昨夕の編集会議でお前のスぺースは取ってあるのだから必ず何か書くのだぞ・・・・」と何度も念を押されたのです。
周太郎とて文学を志望して上京し、現在、劇評を指向している身です。
大先輩が与えてくれた千載一遇のチャンスに奮いたちました。
自分の三田派新人の物書きとしての門出を飾り、先輩達の期待にもこたえたかったのです。
「新聞劇評家に質す」と題した評論で、大正6年の5月号の「三田文学」に掲載されました。
これは、三宅周太朗という名で活字になって読まれた初めての評論でした。(no4597)
◇きのう(1/5)の散歩(10.461歩)
〈お願い〉
「ひろかずの日記」 http://blog.goo.ne.jp/hirokazu0630b
時々、上記の「ひろかずの日記」のURLもクリックください。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます