ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

三宅周太郎さんのこと(15) 周太郎の快調な船出

2019-01-07 08:45:19 | 三宅周太郎さんのこと

      周太郎の快調な船出

 周太郎の処女作とでもいうべき「三田文学」五月号掲載の評論は好評というよりも劇界の内外に大きな波紋をおこしました。

 この時代の長い間、情実としか思えぬ御用劇評家が多かったのです。

 この時代は、世相は享楽第一のデカタンだったせいか、新聞劇評家の大部分の人達の不勉強怠慢は、眼に余るものがありました。

 周太郎には不満でした。

 一種の御用評論家で、チョゥチン記事で白を黒、黒を白とでも平気でいえる位の論評しか書けない程堕落し切っていました。

 これらに反駁して、皮をむいたように誰にはばかることなく三十数枚のマスを埋めたのだから、退廃的な劇評界に大きな一石を投じたのは当然でした。

 「これを発表した後、世間に出て、世の中がいくらか分り劇評家たちと知り合いになると、私はいつも潜越なことをしたと心苦しかった」と回想しています。

  「三田派」といわれ、慶応ボーイともいわれた一派は、ほんぼんという中産階級以上の出身者の集りであったせいもあろうが、現実の生活はあまり重要なことでなく、それよりも純粋な至芸の本道の追求を至高のものとしたお家芸のような伝統が培われていたようです。

  大正末期から昭和初期の文運漸く隆盛をきわめた頃の文壇の大御所ともいわれた菊池寛は、生活第一、芸術第二を信条とし、高言もしていました。

 彼は、「三宅は才があるが世渡りはへただ」と周太郎のことを評していました。

 しかし、周太郎の処女評論は、多くのインテリの注目をひきました。

 そして、再建された「三田文学(五月号)」は好評を受けたとされたのです。

 五月末に、三田派の文土達の恒例の茶話会が開かれたが、出席したのは当時の慶応文科の講師であった小宮豊隆をはじめ、沢木編集主幹・小山内薫・水上瀧太郎・久保田万太郎・南部修太郎等々の三田派幹部をはじめ関係者20数名が参集したが、それらの人達が口にしたのは「三宅は来ているか?」でした。

 その時、周太郎は先輩達の前に出たところで苦言の一言でも聞くのが関の山だと思い込んでいたので、是非観ておきたい芝居があり、横浜へ出かけて欠席しました。

 一同に周太郎の顔が見えないことが判ると、非常に残念がった諸先輩達は「実にアレはよくやった…」 「さすがに日頃の蘊蓄を傾けて三宅はズバリと書いた・・・」と賞賛の言葉が続いたのでした。

 それは、やや不振であった「三田閥」から、久々の前途有意な新人の卵が出たことに対しての、あふれんばかりの賛歌でした。そして当日同席していた小島政二郎に「おい小島、あの調子でやれと是非三宅に伝えろ!」と声援の伝言が託されたのでした。さらに反響は文壇の一角にも広がっていきました。

 三田派の部外者である「時事新報」の文芸欄を担当して文芸評論家が三宅周太郎の「新聞劇評家に質す」は新人の価値を決定するものだと絶賛したのです。

 周太郎には、一挙に花が咲きました。

  三田派の演劇評論家の新人「三宅周太郎」の船出のすべり出しは、快調そのものでした。

 加古川寺家町の酒造りの素封家に生れ育った内気なぼんぼんが、まさにこの道一筋に賭けて故郷の生家を出てから丸10年の努力の結果でした。(no4598)

 ◇きのう(1/6)の散歩(13.383歩)

 *写真:久保田万太郎(万太郎をはじめ三田派の先輩が周太郎を支持しました)

 〈お願い〉

  「ひろかずの日記」 http://blog.goo.ne.jp/hirokazu0630b

   時々、上記の「ひろかずの日記」のURLもクリックください。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 三宅周太郎さんのこと(14... | トップ | 三宅周太郎さんのこと(16... »

コメントを投稿