奈良時代、中央・地方の政治の仕組みも整った。地方には国司・郡司・里長等の地方官が置かれた。
これら 地方官の主な仕事は、百姓から税(米など)を確実に徴収することだった。
そのために政府は、土地制度を整備した。これが、条里制(じょうりせい)である。
その仕組みは下図のように六町四方(約43.2ha)の大区画を縦横6等分、つまり36の小区画に分け、それに一の坪、二の坪・・・三十六の坪のように番号をつけた。
右図の「加古川河口部の条里制」にある番号は小字に残る「坪番号」である。
加古川の条里制について『加古川市史(一巻)』から一部を引用したい。
・・・・(加古川東岸の条里制は)加古川町大野地区の平坦地から美乃利・溝口・平野・北在家・粟津・木村・西河原・友沢・備後・南備後・稲屋、尾上町今福・養田・長田・安田・池田・口里、野口町坂元・良野・長砂、別府町新野辺にかけて広がる。
北在家付近では、市役所庁舎を中心にした市街地として区画事業に現在は遺構がみられなくなっていたり(する)・・・
奈良時代、加古川市の中心部では条里制が発達していた。
粟津にも整然とした田畑が広がっていた。当然、そこには人が住み、集落があった。
とすると、粟津に集落が出来たのは奈良時代としてよいのかもしれない。もちろん、現在の広い集落ではなく、もっと狭い地域を指していたであろう。
それぞれは、カゲノキ・ハッペ・カサハチ・マルコシ・フケ・ウマアライ・カモノシタ・ナカザイケ・ノリキ・カニガセと呼ばれていたのかもしれない。この部分は、若干怪しげな説である。(ウマハチ等は粟津の小字)
なお、カサハチのハチのは条里制の「八の坪」 のことと思われる。
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