「一遍上人絵伝」に描かれた教信寺
*(注)一遍は鎌倉時代の人ですが、教信(寺)の続きとして「平安時代」の項に含めて紹介しました。
修行を重ね各地を行脚するうち、弘安2年(1279 年)信濃国で「踊り念仏」を始め ました。
「踊り念仏」は、空也に倣ったものといわれています。
一遍は、沙弥教信にも傾倒していました。
弘安5年(1282 年)には、布教のため鎌倉に入ろうとしましたが、拒絶されました。
弘安7年(1284 年)上洛し、都の各地で踊り念仏を行なっています。
その後、弘安9年(1286 年)、四天王寺を訪れ、当麻寺(たいまでら)・石清水八幡宮を参詣します。
教信寺を参詣
さて、四天王寺・当麻寺・石清水八幡宮で念仏を行ったのち、一遍の一行は、播磨へと 向います。
目指すは、野口の教信寺でした。
その時の様子が「一遍上人絵伝」(右絵)に描かれています。
この庵こそ、一遍が自らの臨終の地としてみずからの終焉の地として撰んだ場所でした。
絵伝の右隅に石棺のようなものがあります。おそらく「教信が死に臨んで、自らの体を獣に施した場所か、それとも教信を荼毘にふした場所」を描いたものでしょう。
一遍は、この時、めっきり体力の衰えを感じていました。
この石棺は、一遍の運命を暗示しているようです。
彼は、ここにしばらく止まって死を迎えるつもりだったのでしょう。
いずれにしても、この後、彼の中国から四国へかけての遊行は、ひたすら、この地へ戻らんがための巡礼とさえ思える旅でした。
野口で年を越した一遍は、弘安10都市(1287)の春、姫路の書写山に旅立ちました。(no4800)
*絵:一遍上人絵伝、いなみの教信寺に一夜を明かす。