五ヶ井用水の取り入れ口(加古川大堰)付近を歩いてみる。
右の地図は、文化十三年(1816)の「五ヶ井・新井掛り村々溝手絵図」の解読図の一部である。
五ヶ井用水の取り入れ口に水を集めるには、まず中西条と対岸の都染村(つそめむら)を結ぶ、長さ200間ばかりの河原に堰(A)を築き、Cに水を集め、そしてBの堰で水をせきとめ、Dの五ヶ井用水の水門(今はない)から五ヶ井溝と新井溝の取り入れ口に水を集めている。
Aの堰を古川堰、Cの溝を新川、そしてBの堰を新川堰である。
古川堰・新川堰について書いておきたい。
古川堰・新川堰は、毎年田植えの前に築かれるが、次のような取り決めになっていた。
① 井堰づくりの日取りは、下の太子岩(「五ヵ井用水を歩く・NO13」で紹介の予定)のところで加古川の水の増減を調べて、係(手振)が普請の日取りを決める。
② 井堰づくりに日には、井頭(中津・大野村の庄屋)は、小屋につめ指揮をとる。
③ 各郷が分担する場所は、各五ヶ井郷の庄屋がくじを引いて決める。
④ 本流の古川井堰に枠を入れる順は、慣例により決められており、今福之庄、長田之庄、北条之郷、新井郷、加古之庄、岸南之庄の順である。
新川堰の縄張り(せき止める場所)は、「くじ」で割り当てられた。
井堰の各部分は、水の深浅・水勢の強弱がそれぞれ違うので、まさに「くじ」を引くようなものであった。
特に、新川堰は一度に枠をいれ、そこに土俵を投げ込んで堰止めるのであるから、一村でも損なうようなこがあれば、堰は大崩になる。
「その様子はすさまじいばかりであり、時には死人をだした・・・」と『孔雀楼筆記』は記している。
また、協力的でなかった者は、容赦なく懲らしめられたという。
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