明けまして おめでとうございます
今年も、拙文を続けますのでよろしくお願いします。ご批判・ご感想をお寄せください。
志方城の戦い
二つの記述(『播磨灘物語』・『志方町誌』)から志方城の戦いを見ておきたい。
あまり、大きな違いはない。
ともに、官兵衛とその妻の働きかけを書いている。そして『志方町誌』には、城内での赤痢の蔓延を書き加えている。
『播磨灘物語』にみる志方城の戦い
神吉城が陥ちると織田軍は全軍をあげて志方城(城主:櫛橋伊定・くしはしこれさだ)攻めにとりかかった。
繰りかえすようだが、秀吉とその部隊はこの方面の戦場にいない。
このため、官兵衛はこの攻撃に加わっておらず、自分の妻の実家を攻めるという苦痛からまぬがれた。
信長は、播州をふくめて中国筋で織田氏に反抗する大小名はことごとく殺してその城地をとりあげるという方針を示していたが、ただ志方城櫛橋伊定ばかりは、秀吉を通じて官兵衛があらかじめ命乞いをしていたため、降伏すればこれを許すことにしていた。
志方城も、よく戦った。神吉城と同様、二十日ほど保ちこたえ、降伏したが、櫛橋伊定は、命だけゆるされた。のち官兵衛はこの一族を家臣団に組み入れ、厚く遇している。
『志方町誌』にみる志方城の戦い
七千五百余騎という軍勢が志方城にせまったのはその年(天正六年・1578)の七月のこと、総大将は信長の次子信雄であった。
これに対する志方城の城兵はわずかに千余、何度か城門を開いて切って出たが衆寡敵せず死者はますばかり、その上城兵の過半数は赤痢のために倒れて武器を取る力もなかった。
「今はこれまで」と伊定はかぶとを脱いで、従臣に持たせ、城を出て降伏した。
自分の命と引きかえに城兵の命を願ったのである。
これは、伊定の姉婿にあたる黒田官兵衛の助力があったもので、後に自分も許されて秀吉の軍に加わり、官兵衛の臣となった。
次号では、この記述に少し感想を加えてみたい。
*図:志方城復元図(『加古川市史・第二巻』より)
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