四仏石仏(写真)は、十三重層塔と四基並んだ五輪塔の中間にある。
昨日(3月8日)は、春の暖かい木もれ日の中にあった。
組み合わせ石棺の底を利用したもので、四体の阿弥陀像が刻まれている。
説明板によれば「銘文は第二尊と第三尊の間に文和(ぶんわ)二年(1353)、第一尊と第二尊の間に二月とある。
この銘文から、南北朝時代の造立であることが分かる」とある。
確かめてみたが、よく読めなかった。
「文和」は北朝方の年号で、説明板にあるように明らかに南北朝時代の造立である。
当時、まさに激動の渦中にあった。この石仏造られた前年の文和元年には、足利尊氏は弟の直義(ただよし)を殺害した。
世にいう「観応の擾乱」(かんのうのじゅうらん)である。
南北両朝の抗争の最も激しい時であった。
報恩寺は、赤松氏と深い関係を持っており、赤松円心をはじめ則祐(そくゆう・円心の三男)・満政等赤松一族との関係持つ古文書を多数保存している。
報恩寺は、南北朝の頃、隆盛した。
この小さな石仏は、そうした時代に造られている。
だが、誰が何のために造ったものかは分からない。
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