ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

上荘町・平荘町探訪:報恩寺研究⑥・四仏石仏

2009-03-09 10:28:17 |  ・加古川市上荘・平荘町

Taira_038_2 四仏石仏(写真)は、十三重層塔と四基並んだ五輪塔の中間にある。

 昨日(3月8日)は、春の暖かい木もれ日の中にあった。

 組み合わせ石棺の底を利用したもので、四体の阿弥陀像が刻まれている。

 説明板によれば「銘文は第二尊と第三尊の間に文和(ぶんわ)二年(1353)、第一尊と第二尊の間に二月とある。

 この銘文から、南北朝時代の造立であることが分かる」とある。

 確かめてみたが、よく読めなかった。

 「文和」は北朝方の年号で、説明板にあるように明らかに南北朝時代の造立である。

 当時、まさに激動の渦中にあった。この石仏造られた前年の文和元年には、足利尊氏は弟の直義(ただよし)を殺害した。

 世にいう「観応の擾乱」(かんのうのじゅうらん)である。

 南北両朝の抗争の最も激しい時であった。

 報恩寺は、赤松氏と深い関係を持っており、赤松円心をはじめ則祐(そくゆう・円心の三男)・満政等赤松一族との関係持つ古文書を多数保存している。

 報恩寺は、南北朝の頃、隆盛した。

 この小さな石仏は、そうした時代に造られている。

 だが、誰が何のために造ったものかは分からない。

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