江戸時代、東志方9ヶ村(大沢・大宗・岡・細工所・高畑・野尻新・行常・吉広・柏尾の各村)は、姫路領・幕府領・姫路領・相模小田原領・一ツ橋領と支配関係はかわった。
*上記の村のうち吉広村と柏尾村は、明治9年合併した現在の(東志方町)広尾である。
宝永4年(1707)11月23日(現暦:12月16日)、「宝永の噴火」と知られる富士山が、空前の大爆発をおこした。
元禄16年(1703)には、房総近海を震源とするマグニチュード8.0~8.2といわれる巨大地震が、南関東地方に大災害をもたらした。
ことに小田原の被害は甚大で、町は火災でほとんど全滅。それに小田原城は、天守閣をはじめ多くの建物が全壊した。
その上えに、宝永の大噴火がその4年後におこったのである。
富士山は、膨大な火山灰を噴出させた。風下の小田原領を直撃した。
小田原領は、火山灰にのみこまれた。
たちまち食料が不足し、飢餓が襲った。火山灰は川をせき止めた。そして、いたるところで洪水を起こした。
ほとんどが「亡所」と言うまでも、廃墟同然となった。当然、年貢は集まらない。
復興の方法が見つからない。
当時、小田原藩の藩主・大久保忠増は老中であり、非常手段をとった。
小田原藩の領土の過半を一時、幕府に返上にしてしまった。
幕藩体制の成立以来こんな例はほかにない。
そして小田原藩は、それに代わる土地を宝永5年に、復興がなるまでという期限つきであったが得たのである。
東志方の9ヵ村もその一つである。
地図を見てほしい。東志方村の地続きでは、加西郡の網引・倉谷・坂本村と一乗寺も小田原藩領となった。
この状態が約40年、延享4年(1747)まで続く。
その後、元の状態に戻ったのではない。東志方のこれらの村は、新たな支配領に組み込まれる。
明日のブログで紹介したい。
*宝永5年・小田原藩に編入された所領は、『加古川市史(第二巻)』(p228)に掲載されている。
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