「時事新報」をクビになり、市内各劇場での観劇の自由と劇評の筆を絶たれ、さらによき理解者であり経済的にもいろいろ援助を受け、親代りとも頼っていた姉ムコ、橋本仙之助の葬儀を終えて下宿へ帰ってきました。
周太郎は、将来への希望も夢も一切絶ち消え、東京の街で、失意と孤独に日々を過しました。
しかし、ビックリするような事が起こりました。
中村吉右衛門との絆
中村吉右衛門と三宅周太郎とは共に近代まれな至芸の道を歩んでいました。周太郎は、吉右衛門の心の奥を心憎いばかりに見透したような評論かきました。
吉右衛門は周太郎の舞台を見つめるひたむきな審美眼と、鋭い洞察力を見抜いて、ひそかに周太郎を畏敬していたようです。
松竹顧問であった遠藤弥一が主宰で、一座の局外から吉右衛門の舞台演技全般について、相談に応じる顧間機関というべき「皐月会」の結成の話が進み、周太郎にも是非参加してくれるように依頼があり、周太郎は快諾しました。
その会には、小山内薫、小宮豊隆、阿部次郎、里見弾、土方与志と、当時としては芸術至上主義を信奉する演劇研究家の豪華メンバーでした。
この様にして「皐月会」に加わり、新冨座顧問、吉右衛門相談役という好遇で周太郎が起用された事は、劇界に少なからぬ波紋を投げたようです。
周太郎にとっても新しい境地に向って、奮起する大きな転機にもなりました。
さらに、小山内薫を介して周太郎は、土方与志との交友を深める事ができました。
三宅周太郎著『演劇往来』を出版
大正10年が過ぎ新しい年を迎えた周太郎には、さらに大きな朗報が入りました。
その頃、早稲田文科出身で新潮社の編集部に勤める水守亀之助の口ききで新潮社から、周太郎が「三田文学」や新聞雑誌に発表した劇評集を出版しようという話が持込まれたのです。
新潮社の佐藤義亮社長は、周太郎の劇評をかねてより注目して愛読していました。
周太郎は、もとより異論のあるはずはありません。しかし、発刊の過程には若干の曲折があったようですが、佐藤社長の鶴の一声で決定しました。
見事な劇評集処女出版『演劇往来』の単行本が発刊されました。
これは「三田派」としては、久保田万太郎以来の快挙でした。
大正11年2月25日発行。定価1円50銭とあり、当時としては多い部数の3000部を売り尽しています。 (no4604)
◇きのう(1/11)散歩(10.433歩)
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