鹿子水門(かこのみなと)
『日本書紀』応神天皇13年の条に、次のような話があります。
・・・天皇が淡路島に狩に出かけた時に、多くの鹿が「鹿子水門(かこのみなと)」に入るのを見たので、調べてみると、日向(宮崎)の豪族の娘(髪長媛-かみながひめ)が都に仕えるために東上するための一行だった。
彼らが鹿皮の衣を着ていたので、鹿と見あやまったのだった・・・
これは、地名説話ですが、九州と畿内を結ぶ瀬戸内海の泊(港)のひとつに、「鹿子水門」があったことを物語っています。
古代には河口が港として利用される場合が多かったのですが、航海に必要な水や食料も得やすかったのでしょう。
それに、加古川の河口は内陸部と結ぶ重要な拠点でした。
「鹿子水門」がどこにあったか、明らかではありません。
でも、加古川東岸は西岸と比べ若干土地が高く、加古川の流れは西岸より安定していました。
古い古墳も東岸に集中しています。そんなことを総合して、現在の稲屋(加古川市加古川町)辺りが、「鹿子水門」であろうと考えられています。
現在の稲屋は、やや内陸部になっていますが、当時はこの辺りまで海が迫っていたと思われます。(no5623)
*『加古の流れ(市史余話)』『加古川市史(一巻)」参照
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