「天皇機関説事件」の初期段階で重要な役割を果たしたのは、軍人の経歴を持つ政治家たちでした。
彼らが機関説に反発した理由は、この時期の日本軍人は、いくつかの出来事がきっかけで、美濃部達吉という個人に対して、強い反感や敵意、恨みの感情を抱いていたのです。
統帥権干犯(とうすいけんかんぽん)
ひとつは、1930年4月22日に日本政府が締結した「ロンドン海軍軍縮条約」に関し、日本海軍の軍令部が「帝国憲法に定められた天皇の『統帥権』を干犯するものだ」として強く反対したにもかかわらず、美濃部が自分の憲法解釈を援用して政府の判断を「正しい」と弁護したこと。
そしてもうひとつは、陸軍省新聞班が1934年10月10日に刊行したパンフレット「国防の本義と其(その)強化の提唱」について、美濃部がその内容を徹底的に批判する記事を雑誌に寄稿したことでした。
ロンドン海軍軍縮条約とは、第一次世界大戦が終結した後の世界において、各国の保有する軍備に制限をかけようという国際的な協議で採択された条約で、日本政府は欧米各国との交渉の末に調印を決定し、1930年10月1日これを可決、10月2日に批准しました。
ところが、海軍内部と政界の一部はこの条約締結の仕方に間題があるのではないか、と疑問を抱く人間が存在していたのです。
艦艇の保有数に関する条件の交渉と最終的な決定の権限は、交渉を担当した海軍省ではなく、天皇が持つ統帥権を補佐する海軍軍令部に属するもので、軍令部が条件を了承していないのに政府が条約を締結したのは「統帥権の干犯」ではないか、というのが、彼らの言い分でした。
これに対し、美濃部は憲法学者の立場から、政府の条約締結は「統帥権の干犯にはあたらない」との解釈を述べ、条約を締結した政府の判断を全面的に擁護しました。
陸軍パンフレットへの批判
一方、陸軍パンフレットの最初の「国防観念の再検討」では「たたかひ(戦い)は創造の父、文化の母である。・・・・生命の生成発展、文化創造の動機であり刺激である」と書かれていました。
美濃部は猛反対を述べました。軍部は、メンツをつぶされ美濃部を目の敵とばかりに猛反撃を開始しました。(no3597)
*写真:ロンドン軍縮会議
この統帥権については、「この国のかたち」司馬遼太郎で識りました。
平時・戦時を問わず、「統帥権」は三権(立法・司法・行政)から独立し、軍は天皇のスタッフだから憲法上の責任なんかないと解釈したとは・・・。
天皇制の持続には、誰もが四姓を称すようになり「はるかながら天皇の末の流れを汲む」という風になり、こういう流れを通して、「天皇制」というものが庶民武士たちの中にこまかい根を張るにいたったと・・・。
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