ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

大河・かこがわ(216) 江戸時代(10) 高砂の近世(10)・江戸時代の初期は、大開発の時代

2020-04-05 07:42:42 | 大河・かこがわ

        江戸時代の初期は、大開発の時代

 

 江戸時代のはじめ、新田開発がずいぶん行われ、耕地は広がりました。

 江戸時代初期は、大開発の時代で、日本の農村の原風景がつくられたのはこの時代です。

 とりわけ、印南郡・加古郡の平野部・台地部では加古新田(現:加古郡稲美町)をはじめ大規模な開発がおこなわれました。

 また、明暦4年(1658)の益田堤の築堤により、加古川の西岸部に新田開発が拡大しました。

     江戸時代中期の新田開発は停滞

 江戸時代初期には、これら新田の開発により、米の増産がありましたが、中期以降これら新田の開発は停滞します。

 あまりにも急激な、新田開発のために水不足の問題がおこりました。

 つまり、急激な開発が続けば、水不足で共倒れがおこりました。

 そのため姫路藩でも、中期以降は新田開発も積極的に行われていません。

 しかし、江戸時代の中期以降は、(1)貨幣経済の発展と米価の変動による支出の増加、(2)農民階層の分化、(3)凶作・飢饉などにより、各藩とも財政政策は深刻になりました。姫路藩も例外ではありません。

 そのような状況の中で、しばしば、大規模な洪水・飢饉が当地方を襲いました。

 享保7年(1732)の飢饉では、姫路藩では1700人もの飢人がでましたが、高砂は特に多く600人の飢人を出しています。

 高砂で、特に多くの飢人が多かったのは農業から離れ、日雇い・沖仲仕等半プロ層が多かったためと考えられます。

     文化の大改革

 これらの藩の財政の窮乏を立て直すために行われたのが、文化の大改革です。

 この藩改革で、家老の河合道臣(後の寸翁)は、新たな殖産興業にとりくみました。

 その中でも、最も力を注いだのは木綿の生産と藻綿(綿製品)の専売制度の実施でした。(no4926)

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