ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

稲美町探訪(377):加古を歩く(32)・加古大池物語⑦、あいまいな表記

2011-01-11 08:06:00 |  ・稲美町加古

  文書「手形之事」から③

8395277c 写真右の文書(もんじょ)「手形之事」の赤線の部分をもう一度読んでみます。

  「・・・四月より七月之内用水之時は下流申様御願申候、四月より七月迄之内たり共水沢山の時は少シも構無御座候・・・」です。

 (四月より七月の内用水の時は、下へ流し申すようにお願申しそうろう。四月より七月までの内たりとも水沢山の時は、少しも構ご座なく候)  

意味は、次のようです。

(意味)

(草谷川の水を大溝用水に取り入れる件ですが、春・冬は、結構です)四月から七月の前は、下(草谷川郷)へ流してください。(四月・七月は旧暦)

ただし、四月から七月の内でも水が十分にある時は、大溝用水へ水を取り入れてもかまいません・・・

  寛延八年(1680)申六月

以上が「手形之事」における契約です。太字の文言に注目してください。

   

あいまいな表記

 「水が沢山の時」とはどんな時でしょうか。非常にあいまいな表現です。

当然、加古新村、国岡新村と草谷郷の村々では解釈が、しばしば異なりました。

加古新村が草谷川に水が沢山あると思っていても、草谷郷の村々は「いや、沢山でない」と主張し、水争いがしばしば起きています。

明和元年(1764)六月九日のことでした。

まとまった雨があり、草谷川には雨が勢いよく流れました。

そのため、加古新村と国岡新村は、水が沢山あると判断して、大溝用水から取水しようと人足を出したのです。

草谷郷の8ヵ村は、そうはさせまいと、これまた人足を出し大騒動になりました。

 草谷村の者が暴行を受けたという8ヵ村側からの届けと、加古新村の者が怪我をしたという2ヵ村側からの届けが、大庄屋を経て代官所に提出されました。

コメント
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