ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

平岡町二俣探訪:古代の山陽道,二俣を走る

2009-06-04 06:49:35 |  ・加古川市平岡町

734a83b6  多くの人々が旅をした道。

 多くの物資が動いた道。

 道は、古代においても、現代においてもその重要性はかわりません。

7世紀、大和政権(奈良を中心とした政権)は、天皇を中心に権力を強め、その勢力を地方へ広げ、そして税を都へ運ぶために、道をいっそう整備しました。

とりわけ奈良と九州の大宰府(だざいふ)を結ぶ山陽道は、重要な道でした。

さしずめ、現代の東京と大阪を結ぶ国道1号線のような役割を果していました。

上図の赤い線が古代山陽道と想定されています。

大和政権は、奈良と太宰府の間に多くの駅(うまや)を設け、旅や税の運搬を便利にしました。

 野口には、日本最大の駅である賀古駅(かこのうまや)が置かれていました。

(賀古駅については、明日のブログで余話として掲載の予定です)

2fd9e31e 奈良・大坂方面から野口まで来た旅人は、しばしば加古川の流に行く手を妨げられました。

そのため、旅人たちは、野口から北の方へ向かい、日岡山辺りから加古川を渡り、升田・・大国・・岸・・魚橋と言う山陽道のバイパスも利用されました。

下図の点線が、山陽道のバイパスです。

古代(奈良時代)の山陽道は、野口から加古川を渡り西へ伸びていますが、東へは上図のように野口から邑美(おおみ)までは真っ直ぐに延びていました。

邑美の場所については、いろいろな説がありますが、ここではその候補地の一つの長坂寺(ちょうはんじ・明石市魚住町)としておきます。

当時の国道1号線とも言うべき山陽道は、東加古川公民館の近くの数池と喫茶店・明日香の間、つまり新在家と二俣の境の辺りを東西に通っていました。

コメント
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