多くの物資が動いた道。
道は、古代においても、現代においてもその重要性はかわりません。
7世紀、大和政権(奈良を中心とした政権)は、天皇を中心に権力を強め、その勢力を地方へ広げ、そして税を都へ運ぶために、道をいっそう整備しました。
とりわけ奈良と九州の大宰府(だざいふ)を結ぶ山陽道は、重要な道でした。
さしずめ、現代の東京と大阪を結ぶ国道1号線のような役割を果していました。
上図の赤い線が古代山陽道と想定されています。
大和政権は、奈良と太宰府の間に多くの駅(うまや)を設け、旅や税の運搬を便利にしました。
野口には、日本最大の駅である賀古駅(かこのうまや)が置かれていました。
(賀古駅については、明日のブログで余話として掲載の予定です)
奈良・大坂方面から野口まで来た旅人は、しばしば加古川の流に行く手を妨げられました。
そのため、旅人たちは、野口から北の方へ向かい、日岡山辺りから加古川を渡り、升田・・大国・・岸・・魚橋と言う山陽道のバイパスも利用されました。
下図の点線が、山陽道のバイパスです。
古代(奈良時代)の山陽道は、野口から加古川を渡り西へ伸びていますが、東へは上図のように野口から邑美(おおみ)までは真っ直ぐに延びていました。
邑美の場所については、いろいろな説がありますが、ここではその候補地の一つの長坂寺(ちょうはんじ・明石市魚住町)としておきます。
当時の国道1号線とも言うべき山陽道は、東加古川公民館の近くの数池と喫茶店・明日香の間、つまり新在家と二俣の境の辺りを東西に通っていました。