二俣には古文書等の史料がほとんど残されていません。
そのため、むかしの二俣の姿を再現することは困難な作業となります。
でも、二俣村の人々も周囲の集落とお互いの関係なかで生活していました。
とすると、二俣の周辺の集落のようす等からあるていど推測が可能です。
今後、そんな作業からも、二俣村の先人の生活を訪ねてみましょう。
◇加古川地方の綿作◇
次の話題に入る前に、加古川地方の綿作のようすをみておきましょう。
江戸時代も終わりの頃、特に文化文政期(1800年代のはじめ)、加古川地方の綿作は、ずいぶん盛んでした。
なかでも海岸部の尾上地区は、その中心でした。
尾上の池田・養田(ようた)にその例を見ると、安政4年(1857)池田村では畑作の中で、綿作の占める割合は86%、(養田73%)を占めており、全田畑では池田66.8%、(養田66.3%)と、ずいぶん綿作がさかんでした。
江戸時代の後期から明治時代の初期の二俣村でも、尾上地区ほどではないが、秋には、真っ白な綿花のある風景が広がっていたことでしょう。
ちなみに明治15年当時の二俣村の田畑のようすを『播磨国地種便覧』(明治13年より編集にかかり、15年に発行)にみておきましょう。
<二俣村の田畑・明治15年>
田 39町2反5歩
畑 16町2反1畝27歩
この数字は、江戸時代の後期もほとんど同じであったと想像されます。
*「播州辺にて綿をつくる図」(「綿圃要務」より)