宮崎和朗(わろう)禅師(現在の福田寺ご住職)
戦後、宮崎禅師は、福田寺で人々に禅の教えを説く一方で、僧侶の育成にも尽力しました。
昭和21年46歳になった宮崎禅師は、永平寺から単頭(雲水の指導)を務めてほしいとの要請を受けました。
宮崎禅師はこの時、初めて永平寺の仕事を務めたのです。
しかし、宗門の中でその力量を認められる存在となっていったものの、この頃の宮崎禅師にはある悩みがありました。
実は、宮崎禅師には、自分の跡を継いでくれる弟子がいなかったのです。
宮崎禅師は、50歳を越える年齢になってしまいました。
昭和30年、奕保氏は、その日、東海道線の下り列車の中にいました。横浜にある総持寺から自坊に戻る途中でした。
「こ老師、お久しぶりでございます」
老僧は、車内で声をかけられました。声の主は、岐阜県の関ヶ原にある妙応寺という古い寺の住職でした。
「今日はどちらまでいらしていたのですか」
奕保氏は「総持寺の講習会で講師を務めさせていただき、これから福田寺に帰るところです」と答えました。
「ほう、それはご苫労さまでした」
その講習会は、総持寺の開山禅師が記した書を学ぶために、年に一度開かれる勉強会のことでした。奕保氏はその講師という大役を任されたのでした。
「そうすると寺の留守は、お弟了さんが見ておられるんですか」
老僧は、住職に聞かれました。
「いや、わしはまだ弟子がおらんのです」
「おやおや、そうでしたか。留守は誰が見ておるんですか」
「留守にする時は、だいたい寺に出入りをしている在家の方に頼んでおる次第です。
「そ.うですか、それにしてもご老師ほどの方に弟子がないとは何とも、もったいないことですな」
妙応寺の住職はそう言うと、しばらく思案した後に「実は、私の寺に時々やって来る人の中に、息子を僧侶にしたいと言っておる人がいるんですが・・・」
「よかったら、その人にご老師のことを話してみましょう」
「それは、何かのご縁があれば誠にありがたいことです」
その時の列車の中での会話がきっかけとなって宮崎禅師のもとに弟子入りしたのが現在、福田寺の住職を務めておられる宮崎和朗(わろう)老師です。
なお、和朗老師は、弟子入りをする前に宮崎禅師が関ヶ原の家を訪ねてきた時のことをこう振り返っておられます。
「頭の尖(とか)った、何やら偉いお坊さんが来たなと思ったのを、よく覚えております」
和朗老師の家の菩提寺は、浄土真宗の寺でした。そのため和朗老師は、宮崎禅師のようにしっかりと剃髪(ていはつ)をした僧侶に、それまで会ったことがなかったのです。(no4572)
*写真:福田寺
◇きのう(12/5)の散歩(11.284歩)
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