ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

加古川町旧鳩里村探検(45) 粟津(18) BAN-BANテレビ・ラジオ 

2021-10-08 09:52:54 | 加古川町(旧鳩里村)探検

      BAN-BANテレビ・ラジオ

 BAN-BANテレビ・放送は、粟津にあるテレビ・ラジオの放送局です。

 東播磨のインターネット・電話も扱っており、二市二町の地域に密着した情報の発信の中心となっています。

 BAN-BANは、改めて紹介することはありません。

 そのため、今日は私個人のことになりますが、ご了解す下さい。

      『加古川さんぽ』をバンバンラジオで紹介

 20197月の初めでした。「バンバンラジオで谷五郎さんとお話しください」という電話がありました。

 おそるおそるOKしましたが、こんな経験はないので少し心配でした。

 そして10日、5時からバンバンラジオ『はりま~るラジオ』の録音がありました。

 進行は、谷五郎さんと竹内明美さんでした。

 私は、歯が抜けて発音がはっきりせずドキドキしていたんですが、お二人はさすがプロですね気持ち良い雰囲気を作っていただき、何とか終わりました。

 内容は、先日出版した『加古川さんぽ』と「加古川の歴史」についてで、番組名は、「谷五郎のはりまーるラジオ」でした。

 おかげで、本の方の販売は好調でした。ありがとうございました。

 今まで、BAN-BANテレビで2回ばかり加古川の歴史を紹介させていただきましたが、もっと加古川市のすばらしい歴史の番組を期待したいですね。(no5656)

*写真:BAN-BANのスタジオにて(左、谷五郎さん・私・竹内明美さん)

 

 

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加古川町旧鳩里村探検(44) 粟津(17) あかりの鹿児資料館

2021-10-07 06:09:14 | 加古川町(旧鳩里村)探検

 今日の「あかりの鹿児資料館」については、『Kako‐Styile2 』(特定非営利活動法人 シミンズシーズ発行)に原正道氏が取材され、書かれた記事を転載させていただきました。

     あかりの鹿児資料館

 江戸時代の明かりと明治時代の洋燈約2000点を所蔵・展示する、加古川の隠れた名ミュージアム「あかりの鹿児童資料館」。

 江戸から名にかけえの時代を照らしあ様々な照明器具の美しさ、素朴で生活に根ざした実用性、職人たちが腕を競った工芸の魅力など、明かりを通して、当時の人々暮らしを伝えています。

 明かりについて知られるミュージアムは、長野県小布施まちにある「日本の明かり博物館」戸堂資料館の全国でも2ヵ所という貴重な博物館です。

 ガスおよびガス器具販売の「ネクスト・ワン」の故・橋本俊一会長設立。

 明治中期にランプの芯を作っていたっことから、明かりの製品を集め、会社の資料室にコレクションを展示していたのが始まりです。

 現在2名の学芸員が在籍し、毎日1名は常駐しているので専門的な話は聞けそう。

 夏休みは小学生を対象とした、ちょうちんの工作教室を開催。

 また、市民のための貸しギャラリーも併設しており、地域交流の場にもなっています。

 資料館を見学したした後は、飲食物すべて200円というお手軽なカフエもぜひ。

 ◇問い合わせ◇

 加古川市加古川町粟津8031

   ☎  0798212191

  開館時間 10:00~17:00

  休館日  月曜、祝日の翌日

  入館料  300円(大・高学生200円、中学生以下は無料) (no5655

 *写真:あかりの鹿児資料館(インターネットより)

 

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加古川町旧鳩里村探検(43) 粟津(16) 明治14年の粟津の集落(人口、269人)

2021-10-06 06:53:31 | 加古川町(旧鳩里村)探検

       明治14年の粟津の集落(人口、269人)

 『播磨地種便覧』から明治時代の野尻新村の税をみておきます。

 同書の前書きに「一、戸数人口は明治14年1月御調ヲ以載ク」とあるので、明治14年の数字です。

 明治新政府は、明治6年(1873)から「地租改正」を行い、米を納める年貢をあらため、土地の所有者から貨幣で定額の地租を取ることにしました。

 地租改正では、耕地の面積をはかりなおし、新たに地価を定め、その%を地租としました。

一般的に、新政府の収入が減らないように高めに設定されたため、農民の負担は江戸時代と比べても軽くなりませんでした。

そのため、各地で「地租改正」に反対する激しい一揆がおこり、これに押された政府は、地租を地価の2.5%(明治10年)に切り下げました。

『地種便覧』は、各村の人口、家数、田、畑の面積ならびに地租の額等を記録した本です。

 当時、粟津はどんな集落だったのでしょうか。子どもにとっては、挿し絵のように蛍の飛び交う夢のような世界だったのでしょうね。

 なお、昨年度の粟津の人口は、4525人(男:2370人、女2370人、世帯数2052戸)です。

 

  粟津の地租・地価(明治14年)

         戸数 68戸

         人口 269人

   一 田 50町7反9畝28歩

        地価 52785円44銭1厘

        地租 1319円64銭3厘

   一 畑  4町8反4畝2歩

        地価 2716円19銭3厘

        地租 67円89銭8厘

   一 宅地 2町4反18歩

        地価 1907円1銭9厘

        地租  47円67銭9厘

    合計 反別58町7畝21歩

        地価 57408円82銭1厘

        地租 14035円22銭4厘

 *藪地・芝地等は少なく省略しました。(no5654

 

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加古川町旧鳩里村探検(42) 粟津(15) 「ハリマ化成」創業の地

2021-10-05 09:45:55 | 加古川町(旧鳩里村)探検

   「ハリマ化成」創業の地

 粟津は、加古川を代表するハリマ化成の創業の地です。

 戦後日本樟脳化学を退職して、松脂工業に取り組んだ長谷川末吉氏が、昭和22年(1947)自宅前の空き地を工場として創業、隣の300坪に初期の本格的工場建設、拡張しました。

 日本最初のパルプ廃液からトールロジンを製造したのです。

 その際、悪臭がでて、戸数が少なかったとはいえ近所に迷惑を与え、野口の現在の地に工場を移転しました。

 空き地はしばらく創業の地として空き地になっていましたが、今はマンションが建っています。

 マンションの周りに工場空き地の痕跡(写真)が残っいます。

 なお、野口の工場も移転当初は、悪臭を出していましたが、現在完全密閉式精留装置を完成し、無公害工場として同社の基幹工場になっています。

 余話です。

 ハリマ化成が移転した土地は、戦中・戦前は陸軍の高射砲隊が置かれていました。

       現在のハリマ化成

  「ハリマ化成」について、インターネットから少し付け加えておきます。

 松の化学(パインケミカル)のハリマ化成グループで、松から採れる天然資源、松脂(まつやに・ロジン)を原料に機能性樹脂や化学薬品を生成し、印刷インキ・塗料・接着剤・合成ゴム・電子部品などに欠かせない製品を製造しています。

 加古川製造所は、ハリマ化成グループ世界11か国22工場の中でも中心となる拠点です。

 

 私には「ハリマ化成」について、ほとんど知識がありません。

 幸い、地域史を研究されてる、山脇広重氏が『加古川街実記』を書いておられます。

 「ハリマ化成創業の地」はほとんど、山脇氏の研究の写しです。(no5653

 *写真:ハリマ化成創業の地

 

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加古川町旧鳩里村探検(41) 粟津(14) 丸越大明神

2021-10-04 08:23:23 | 加古川町(旧鳩里村)探検

        丸越大明神

 地図で丸越神社の場所を確認ください。

 この近くはよく来るのですが、こんな町中にひっそりと神社があるとは知りませんでした。

 先日、ある本で見つけたので探してみました。

 入口に比べて境内は意外に広い神社でした。

 調べてみました。

 「古い神社で、祭神は食稲魂神(うけみたまのかみ)で、農業・食物の神様として大切に祀られている稲荷神社」ですが、それ以上の事はわかりません。

 丸越神社の「まるこし」も、特別な意味をもっているのではなく、神社のある場所の小字(こあざ)名にちなんでつけられています。

 ここでは、稲荷信仰について少しだけインターネットからの説明を紹介しておきます。

    古い神社ですが・・・

 お稲荷さんの信仰が大きく広まったのは、江戸時代です。  

 それまでは穀物の豊作を願って祀る神様でしたが、幕府の改革などで名高い田沼意次が自分の屋敷にお社を祀ったことで運が開けたという評判が広まったといわれています。

 そこから、ほかの武士たちもそれを真似て祀りはじめました。

 さらに、庶民である商人たちもそれにならい、商売繁盛や家内安全の神様として信仰の対象としました。

 木造建築が密集した江戸では火事も多かったため、家屋やお店を、そうした災害から守ってくれる神様としても祀られました。

 これらの様子が参勤交代で江戸に来ていた各地の大名の目に留まり、稲荷信仰は全国に広がっていきました。

 そのうえ、伏見稲荷大社の稲荷大明神は、以前から朝廷より神階のひとつである正一位の位を受けていました。

 その神霊を勧請する各地の稲荷神社もまた、同じ格式を得られることが普及の後押しになったと考えられています。(no5652

 *写真:丸越神社

 

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加古川町旧鳩里村探検(40) 粟津(13) 国道2号線を一方通行に

2021-10-03 05:16:52 | 加古川町(旧鳩里村)探検

        国道号線を一方通行に(昭和44121日より)

 兵庫県公安委会は、(昭和4411月)7日、加古川市内の国道2号線の交通マヒ対策として、121日から、二号線の市街化地域1.6キロメートル東行きの一方通行とし、西行きについては、市道平野西河原線をう回するという幹線国道戦ではめずらしい交逼規制を決定しました。

 市内を通る国道二号織は交通の渋滞が撤しく、43年度調べでは500メートル以上の渋滞が西行き446回、東行き401回、あわせ手847回もあり、通行車輛も一日4万台に近く、こんご年末をひかえて、ますますふえる傾向にあります。

 これまで駐車、右折、歩行者の横断禁止などの措置をとってきましたが大きな効果がなく、この規制となったものです。

 これによって、加古川橋の東詰めから平野交差点までの国道二号線を東行きとし、市道平野西河原線(平野交差点から消防署まで)と加古川左岸線2.6キロメートルを西行きの一方通行として、これらの両区間の4.2キロメートルのうち、とくに駐車禁止でないとこるは通行方向の右側にも停車を認めることにしました。

   加古川橋東詰~平野交差点間、4車線化計画

 今、一方通行になっている加古川橋東詰~平野交差点の1.kmの4車線を目指し拡幅工事計画が進められています。

 この工事が完成すると対面交通(4車線)になり一方通行は解消され、粟津を通る現在の一方通行のバイパスは普通の道路となる予定です。

 なお、加古川大橋は、現在4車線拡幅工事中です。(no5652



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加古川町旧鳩里村探検(39) 粟津(12) 豊沢団平(6)・豊沢団平年譜

2021-10-02 07:02:11 | 加古川町(旧鳩里村)探検

     豊沢団平年譜

 *豊沢団平のことを年譜(1)・(2)で整理しておきましょう。

 

 文政10年3月21日 誕生 団平寺家町西の町の醤油屋に生まれる

 天保6年      9才  入門

 天保9年      12才  三代目広助に入門、力松を名乗る

 天保11年      14才  天満の芝居に出演、初めて一場を持つ

 天保13年      16才  丑之助と改名

 天保14年      17才  三弦の横綱格となり、若太夫を弾く

 弘化元年      18才  豊沢団平を襲名 長門太夫の合三味線となる

 嘉永2年       21才  母もと女死去(65才)

 安政元年      28才  妻、八重を娶る

  〃         〃   養父、安次郎死去(68才)

 万延元年      34才  初めて女児を得たが死産

 文久2年      36才  長男が生まれたが死去

 文久3年      37才  父平蔵作州にて死去(81才)

 慶応元年      39才  平三郎誕生

 慶応3年      41才  国吉誕生

  明治2年      43才  母八重死去

    八重死去後、千賀を娶る

 明治10年      58才 文楽座を去り彦六座に移る

 明治26年      67才  11月千賀死去 享年53

 明治31年      72才  41日 団平稲荷座の舞台に倒れ死去、阿倍野に葬る

 昭和19年          長男・平三郎が死去、遺族が常徳寺石碑に団平の名を刻む(no5651)

 *写真:豊沢団平と常徳寺の団平の墓所

 

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加古川町旧鳩里村探検(38) 粟津(11) 豊沢団平(5)・団平逝く

2021-10-01 06:29:17 | 加古川町(旧鳩里村)探検

   団平逝く

 明治3141日の舞台でした。

 団平の三味線の音はことに美しく、聞くものを感動せしめずにはおかなかったといいます。

 すでに、台本も残り一枚余となった8時30分頃のことでした。

 団平は、撥を持ったまま弦を弾こうともしません。

 その様子が尋常ではなかったので大隅太夫が「代り・・・代り・・・」と声をかけ、楽屋にいた門弟の豊沢龍助が羽織のまま舞台にかけ上って後を弾き継ぐ間に、門人が団平を左右より抱きかかえて楽屋へもどってきました。

 容体は急性悩充血ですぐに病院につれてゆくことになったのですが、運ばれていく途中、三休橋北詰派出所前で全く絶望となってしまいました。時刻は、10時30分でした。

  門弟等は涙ながら遺骨を清水町の自宅に運びました。

 団平はかねてから「撥をもったまま死にたい」と語っていましたが、まさにその通りになってしまいました。

 葬儀は5日午前9時から安倍野で営まれました。

 その日、稲荷座は休業しました。市内の大勢の義太夫芸妓が全部参加した盛儀になりました。

      団平の墓碑 院号は「調音院」

 団平の長男平三郎が亡くなった後、昭和19年に遺族門弟衆が加古川常徳寺の父祖の墓畔に加古家霊位の碑を建て、これに団平の名を刻んでいます。

 法名は、大違絲道居士でした。

 団平の左は,長男平三郎の法名です。(no5650

 *写真:団平の墓碑(常徳寺)

 

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加古川町旧鳩里村探検(37) 粟津(10) 豊沢団平(4)・千賀女との再婚

2021-09-30 08:52:41 | 加古川町(旧鳩里村)探検

       団平、妻・八重を亡くす

 安政四年(1857)31才の時、高砂清水町に住んでいた佐藤市次郎の二女八重を娶りました。

 愛情は細やかで、常徳寺におさめられている位牌によれば、6人の子供をなしています。

 六人目に生れた女児の出産のために八重は31才で落命して母子ともなくなりました。

 団平は、芝居の出勤にも、弟子達の指導にも困って、贔屓の旦那衆より種々すすめもあったのですが、京都祇園の茶屋の女主人・沢田「ちか」を迎えて後妻としています。

        千賀女との再婚

 千賀女(ちか)は、西陣の染物業沢田安兵衛の二女で備中松山の城主板倉周防守につかえ、一人の男子をもうけたが、周囲の妬みがきびしいので、暇を乞うて京都に帰り、茶屋家業を初めていたといわれています。

 しっかりした、真の強い人であったことは間違いなさそうです。

 当時、大坂義太夫弾の名人といわれる団平が妻を失い子供をかかえて困っている話を知って、団平の性行を承知の上で、自分の仰くべき人はこの人の他にはいないと自ら進んで団平の後妻に押しかけています。

 千賀女が家に入ってからは、子どもの教育は元より、家事一切を引受けて世話をしました。

 千賀女には、創作の才がありました。壷坂の台本は千賀女の手になるものです。

 千賀女の人柄の一端は、映画「浪花女」にもえがかれており、想像はできます。

 むかし、文楽座関係の人を煩わし写真を見た人の言によれば「千賀女はよく肥った頗すこぶる大柄な女で気品もあり、十人並以上の美人」であったと伝えています。

 千賀女の死は、今で言う疫痢で、死に瀕しても便をとってもらうことを承知せず、自ら便所に通うような無理を重ねたそうです。(no5649

 *写真:壷坂寺にある「壷坂霊験記」主人公、お里と沢市の像

 

 

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加古川町旧鳩里村探検(36) 粟津(9) 豊沢団平(3)・弘化元年(1844)18才で豊沢団平を襲名 

2021-09-29 06:53:03 | 加古川町(旧鳩里村)探検

   *写真の彼岸花のある風景は本文と関係はありません。でも、団平の三味線に対する情熱と重なるように感じます。

   弘化元年(1844)18才で文楽座に出演

    そして、豊沢団平を襲名  

 団平は、平蔵の末っ子として文政10年(1827月21日、寺家町の醤油屋に生まれました。

 幼名は、丑之助とも力松といわれました。

 芸界に入った初めの名が力松で、常徳寺の記録は全部、丑之助です。

 竹本千賀太夫の養子となりましたが、千賀太夫のすすめで三代目豊沢広助に入門して三弦を始めました。

 そして、天保9年12才の春に力松を名のりました。

 一度三弦を習い始めると、人に倍して熱心であったので上達もいちじるしく、天保11年の春に天満の芝居に出、初めて三段目を弾く身になりました。

 弘化元年、18才で文楽座に出て、豊沢団平を襲名し、長門太夫の合三味線であった清七の代役をつとめています。

 清七が、遂に病に倒れたので長門太夫の所望とあって、多くの先輩をこえて名人、長門太夫の合三味線となったのです。(no5648



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加古川町旧鳩里村探検(35) 粟津(8) 豊沢団平(2)・団平は、寺家町で生まれる

2021-09-28 06:39:15 | 加古川町(旧鳩里村)探検

   団平は、寺家町で生まれる

 団平は、家寺町に生まれました。

 家は代代醤油屋であったといわれています。

 今の寺家町330番地を含む一角です。

 昭和39年当時、玉岡昌二氏によると四代前の健蔵氏の代に寺家町に出て来て、初めはその家の一部を借りて住居を初めたのですが、間もなくその家を買取ったとのことです。

 この家の裏に近年(昭和39年)まで醤油蔵であったかと思われる建物が残っていたのですが、腐朽のため倒壊して、今それをしのぶものは残っていません。

 父・平蔵は作州(岡山県)尾崎村の竹内氏の次男として生まれ、加古家に入り養子となって仁右衛門を襲名しました。

 父・平蔵は、晩年尾崎村に帰っています。

 団平の父平蔵は、当時の記録によると放埒で大酒を呑みで、遊興にふけって京の島原、大阪の新町あたりで名が知られた人物でした。

 その上に、義太夫浄瑠瑠を好み、多くの芸人を愛して、これがために家産は遂に散逸してしまったといいます。 

 団平の養父(叔父)、加古安次郎の代になって、隣なる加古川町(寺家町)へ移転しました。

 その家は、立派な大きな家でした。

 その家が、安次郎氏が加古川へ来て住んだ家、そして団平が生れた家です。(no5647

 *写真:「豊沢団平誕生之地」の碑

 

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加古川町旧鳩里村探検(34) 粟津(7) 豊沢団平(1)・豊沢団平って誰?

2021-09-27 07:34:31 | 加古川町(旧鳩里村)探検

         豊沢団平(とよさわだんぺい)って誰

 明治31年4月1日、場所は大阪の稲荷座です。

 その日、義太夫三味線の名手、豊沢団平の音色は、ことのほかさえ、き聞き入る人々を魅了していました。

 九分どおり済んだと思われた時でした。団平は、ハタとバチを落とし、前のめりにガックリ肩衣のまま倒れました。

 意識不明のまま団平は、病院に運ばれる途中絶命しました。この時、71歳でした。

 三味線界300年の歴史を通じて、その右に出るものなし、とまでいわれた団平の死は、いかにも、この人らしい終末を飾る劇的な風景でした。

 有吉佐和子は団平をモデルにして、小説「一の糸」を書いています。

 彼は、本名を加古仁兵衛(かこにへえ)といい、加古家は団平から数代前に粟津から寺家町に移転して、醤油醸造を家業としていました。

 粟津の常徳寺が加古家の菩提寺で、団平はこの境内に眠っています。

 わたしの行く、友達の理髪店の裏が常徳寺です。

 

 少しだけ余談を書いておきます。

 団平について思い出があります。小学生の時でしたが、たしか「団平羊羹(ようかん)」がありました。

 味は忘れましたが、「ダンペイ」という不思議な言葉の響きが残っています。勿論、その時は「ダンペイ」が人の名前だとは知りませんでした。

 今も「団平羊羹」は製造されているのでしょうか。

 あったら、団平羊羹を食べながら、「一の糸」を、もう一度読み返したいものです。

 話題が「粟津」を離れるかしれませんが、しばらく、団平さんを紹介しましょう。(no5646

 *写真:「豊沢団平菩提所」の碑(常徳寺山門前)

 

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加古川町旧鳩里村探検(33) 粟津(6) 旧制加古川中学(現:県立加古川東高校)の創建は大正13年 

2021-09-26 07:47:01 | 加古川町(旧鳩里村)探検

      美濃部達吉:旧制小野中学(現・県立小野高校)へ進学

 作家・司馬遼太郎氏は、昭和の敗戦までの時代を『この国のかたち(一)』で、次のように書いておられます。

 ・・・昭和ヒトケタから同二十年の敗戦までの十数年は、ながい日本史のなかでもとくに非連続の時代だったということである。

 ・・・

 「あんな時代は日本ではない」と、理不尽なことを、灰皿でも叩きつけるようにして叫びたい衝動が私にある。

 日本史のいかなる時代ともちがうのである。

 

 司馬氏は、この時代を歴史から消してしまいたいような、衝動を感じておられるようです。

 この時代は、高砂出身の美濃部達吉の活躍した時代と重なります。

 重なるというよりも、美濃部達吉は軍部(参謀本部)の攻撃の対象になり、昭和10年、その学説(天皇機関説)は攻撃され、内閣によりその著作発禁の処分を受けています。

 戦前の極端な右傾化の荒波の中で、美濃部達吉は、まさに軍部の攻撃の対象でした。

 美濃部の天皇機関説に関しては、どの日本史の教科書にも登場します。

 

    旧制加古川中学(現:県立加古川東高校)の創建は大正13年 

  

  高砂町出身の美濃部吉は、大変な秀才でした。高砂小学校を卒業後、明治17年に小野中学校(現在の県立小野高校)へ進学します。

 

 「オヤ、どこか変だ」と思いませんか。「なぜ、(旧制)加古川中学(現:加古川東高校)へ進学しなかったのか?」と。

 

 答えは簡単です。加古川東高校の前身の旧制加古川中学が創建されたは、大正13年で達吉が進学を希望した明治17年には加古川中学はまだなかっただけの話です。

 明治17年に旧制加古川中学があれば、美濃部は当然加古川中学へ進学したことでしょうね。(no5644

  *写真:現在の加古川東高校

 

 

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加古川町旧鳩里村探検(32) 粟津(5) 粟津神社境内の稲荷神社の創建は不明

2021-09-25 07:01:48 | 加古川町(旧鳩里村)探検

  粟津神社境内の稲荷神社の創建は不明

 稲荷神社とは、稲荷神社の総本宮・伏見稲荷大社をはじめ、稲荷大神または稲荷神を主祭神としてお祀りしている神社です。

 稲荷神は、稲を象徴する穀霊神、農業と深く関係する農耕神とされています。

 江戸時代までは国民のほとんどが農業に従事していたことから一般庶民に支持され、全国 津々浦々、国内で最も普及した神社となっています。

 ちなみに「お稲荷さん」はきつねではありません。

 きつねは稲荷神のお使いであり、神様をお守りする存在として境内に置かれています。

 

 日本中で親しまれるようになった現在では、「家内安全」や「学業成就」「縁結び」など様々な願いを叶えてくれる、頼れる身近な神様として信仰を集めています。

 また、朱塗りの鳥居が連なっているのは、願い事が「通る」「通った」などの意味から、心願成就の祈念や成就の感謝を込めて鳥居を奉納する習慣が江戸時代以降に広がったためです。「願いが通りますように」と気持ちを込めて鳥居をくぐるといいですね。

 

 粟津神社境内のお稲荷さんですが、創建時期はわかりません。現在の神社は、昭和56年(198110月に新しく建て替えられました。(no5643

*写真:粟津神社境内の稲荷神社の鳥居

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加古川町旧鳩里村探検(31) 粟津(4) 戎神社(昭和34年1月、粟津神社境内に遷座)

2021-09-24 10:20:43 | 加古川町(旧鳩里村)探検

     戎神社(昭和341月、粟津神社境内に遷座)

 大正15年、出雲の国、三穂(三保)神社の分霊を賜り、出雲大社加古川教会境内に恵比寿神社をお祀りしてましたが参詣の人が多く、敷地が狭いために、広い適当な移転先を探していました。

 そんな時でした。粟津神社より「受け入れてもいい」との返事を受け、昭和34年(19591月、粟津神社本殿の東隣に遷座しました。

 戎神としての商売繁盛の神様として、また漁業・海運の神、田の虫除けの神として信仰を集めています。

 今では、加古川戎神社として19日(宵宮)、10日(本戎)、11日(残戎)二大勢の参詣がありにぎわいます。

 

 昨日(23日)、もと戎神社があった出雲大社加古川協会(南本町3丁目)の場所を古い住宅地図をたよりに訪ねました。

 なるほど、神社にしては狭い場所です。その教会跡も現在モダンなアパートの建設中でした。(no5642

*写真:加古川戎神社(粟津)

 

 

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