木を食った話

木を食った話
2014年4月17日(木)

00
昭和三十年代の東京下町、場末で食べる中華そばに入っているシナチク(支那竹)は妙に硬くて、誰いうともなく
「あれは客が使った割り箸を煮て味付けしたものだ」
などという噂があり、冗談だと知りつつ妙な現実味があって、それくらいに硬いことが多かった。

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大宮駅東口に『京園』という台湾料理屋があってなかなか美味しい。いつだったか壁の品書きに干したけのこの炒め物を見つけたので食べてみた。台湾で言う乾筍(カンスン)を戻し、煮て味付けしたものがシナチクだと聞いていたので、半世紀ぶりに割り箸を煮たものでないことを食べて確認できた。

02
子どもの頃食べたシナチクが硬かったのは、タケノコが竹に近いくらいに伸びきったやつを使うからではないかと思っていたが、台湾産の干したけのこの材料は麻竹(まちく)といって直径20cm、高さ20mにもなる大きな竹で、日本の孟宗竹とは大きさが違うらしい。支那産でないのにシナチクはおかしいというので、麺の上にのせる麻竹だから麺麻(めんま)という名に言い換えたのが呼称の由来だという。

03
開高健の作品に『青い月曜日』という自伝的小説があり、その中に太平洋戦争中、勤労動員によって操車場で働かされている仲間と連れだって投網を打ちに行く話がある。列車が山あいの駅に着くあたりの文章がとても美しい。

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 汽車は長方形の車体が楕円形になるぐらい人間を呑みこんでのろのろと走りだし、都会をぬけ、平野をぬけると、やがて静かな山へ入っていった。渓谷に沿って走り、小さな駅で私たちをおろすと、あえぎあえぎ去っていった。この駅でおりたのは三人だけであった。よほどの田舎だ。駅長がでてきて機関士に車票をわたすということもしなかった。私たちは夏空と蝉の合唱のなかにおちていた。川の音が聞えて、あたりいちめんに草の匂いがあった。(開高健『青い月曜日』)

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結局一匹の魚も捕まえることができず、手ぶらで乗った帰りの列車が、米軍機による機銃掃射を避けるため緊急停車する。逃げ惑う人びととともに斜面を這い上った主人公は、徴兵を逃れて山奥に隠棲する男とその妻に会う。

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 「物や技巧にたよると人間は弱くなるのですよ。裸がいちばんいいのです。人間本来無一物と申しますでしょう。あなたがたは知ってますか?」
 川田が答えかねて顔を赤らめていると、男はかまわずに話をつづけた。いつのまにか私たちのまわりに退避してきた汽車の客たちが群がり、男の話を聞くともなしに聞いていた。(開高健『青い月曜日』)

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物慾、色慾、権力慾などという我慾のとりことなったために人類はこうして滅びようとしている。食べようと思えば木の葉でも何でも食べられるのに、人間はことここに至ってもなお買出しだ、闇だと血眼になって我慾から逃れられないと男は言う。そう言って男は手近にあった木の葉をちぎってむしゃむしゃと頬張り、今は苦味があるが若葉のころはもっとおいしいと言って食べて見せ、
「……すると、何ですか、あんたはこんなところへこもって木の葉食べて生きたはるのでっか?」(開高健『青い月曜日』)
とまわりの者を驚かせる。

08
また戦争などという事態になったとしても、もう戦場へ引っ張られる年ではないけれど、もし若かったらこうして逃げ延びることができるだろうか、木の葉を食べて生き延びられるだろうか、などと考えていたら、割り箸を煮たように硬かったシナチクのことを思い出した。

09
戦争中は食べられるものなら何でも食べたので雑草すらなくなるような有り様だったと親たちは言っていた。竹は草本か木本かなどと定義から議論して考え込んでしまう人間が、ジャイアントパンダのように竹まで食べて生き残れるだろうかと、清水から届いた柔らかいタケノコを食べながら思う。

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