ラジオは友だち

2014年4月21日(月)
ラジオは友だち

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診療所待合室で長時間待たされたり、タクシーという密室で運転手と二人だけの沈黙が気まずかったりすると「ああ、こんなときラジオがあって良かった、ラジオっていいものだな」と思う。けれど、電話がかかってきたり、加齢のせいか考え事への集中がままならなかったりすると、ボリュームを絞ったり消してしまいたくなり、日常生活の中でつけっぱなしのラジオにつきあうのはなかなか難しい。

01
震災でラジオが被災民の支えとなった話はドキュメンタリー映画のやらせ発覚で味噌がつけられてしまったけれど、ラジオが果たした功績には偽らざるものがある。東京在住でも震災直後の余震が酷くて地震酔いになり、心がわさわさと不安定になったとき、つけっぱなしのラジオにずいぶん助けられた。

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人生でとりわけラジオがありがたかったのは、母親が他界して無人となった家の片付け帰省時だ。足かけ四年間、ひとり軍手をはめマスクをして、薄暗い家のゴミ捨てをしたが、片付け作業をしているときも、がらんとした部屋に布団を敷いて寝るときも、常に傍らでラジオが鳴っていた。

|末期ガンの宣告を受けた母親が枕元で聴き、他界後の片付けで支えとなった SONY の防災用ラジオを時々つけてみる|

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ラジオは友だちというフレーズはどこか民放ラジオ局のキャッチコピーだったようにも思うけれど、普段の暮らしでラジオが友だちである時間は常に断片化している。いくら気心が知れた友だちであっても、喋り通しの話を始終聞き続けることはなかなかできない。

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だが人間にはそういう付き合い方が必要な時があり、それができてしまうのは互いが家族だからだ。友だちとはいえ他人では耐えられないことも、家族であれば耐えなければいけないし、耐えていけるのが家族というものだろう。呆けた年寄りの幻覚に付き合って、明け方まで訴えを聞きながら過ごした日々もある。

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ポール・サイモンが相棒だったアート・ガーファンクルについてインタビューを受け、仲が悪いというので有名な二人だけれど、それでもずっと友だちですよねと聞かれ、彼が友だちだったことなど一度もない、彼は家族だと答えたという。

06
都合に応じてつけたり消したりして付き合うラジオは他人だけれど、なんでもいいから鳴り続けてくれ、語りかけてくれなかったら心がどうにかなってしまうと感じるときのラジオは、まぎれもない家族なのだと思う。

07
そういうことをポール・サイモン風に言えば、ラジオが友だちだったことなど一度もない、ラジオは他人だったり家族だったりする。友だちとは他人以上家族未満の微妙なものだ。

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