電脳六義園通信所別室
僕の寄り道――電気山羊は電子の紙を食べるか
森を歩こう
2014年4月25日(金)
森を歩こう
A Walk in the Black Forest
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iPhone で「ぶりょうをかこつ」と打ってみたら、ちゃんと無聊を託つと変換できてえらい! 小さなスマホの変換辞書にも無聊は登録されている。
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無聊を託つとはわだかまりがあってこころが晴れないことを言う。無聊にも託つにも同じようにもやもやとした意味があって、同じような言葉の大きさと向きを、背に負わせるように重ねて意味の握り飯を結んでいる。夏目漱石の『こころ』では無聊が次のように用いられている。
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その時の私は屈托がないというよりむしろ無聊に苦しんでいた。(夏目漱石『こころ』)
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屈託にもまた無聊や託つと似たもやもやとした意味があるので、屈託がないと思われるかもしれないけれどとわざわざ前置きをすることで意味の大きさと向きを強化し、言葉の握り飯を手で持っても崩れないようにより堅く結んでいる。
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考えのない私はこういう問いに答えるだけの用意を頭の中に蓄えていなかった。それで「どうだか分りません」と答えた。しかしにやにや笑っている先生の顔を見た時、私は急に極りが悪くなった。(夏目漱石『こころ』)
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ここにまた「極りが悪くなった」という、同じようにもやもやとした大きさと向きを持った言葉が置かれている。極りが悪いの極りとは、体裁が悪いの「世間体」や、ばつが悪いの「場都合」のことであって、「考えのない私」にくすぶるこころ晴れなさの理由に、さらなるもやもやとした大きさと向きを加えている。
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言葉の持つ大きさと向きはベクトルと言い換えられる。もやもやとして深い言葉の森には、書き手が「うんっ!」と力を込め「ゴンッ!」と大木槌で打ち込んだ、意味へといざなう矢印の道標がうまい場所を選んで立てられている。
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昨日も早寝、今日も早起き。いつも通り未明に目が覚めたので、スマホの中にあるもやもやとした朝靄けむる言葉の森を少しだけ散歩してみた。
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